アルバムで辿るビーチ・ボーイズ物語
The Beach Boys History
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栄光と挫折!!
天才の称号を背負ったブライアンの苦悩とは?
ペット・サウンズ
Pet Sounds
66年の初頭、ビートルズの最新アルバム『ラバー・ソウル』に触発されたブライアンは、完璧な作品を作る事を決意した。
アルバム『オール・サマー・ロング』から彼一人で作詞作曲を行っていたが、新しいアルバム制作には作詞家が必要だと考えた。 マイク・ラブでは自分の望む歌詞が書けないと感じていたブライアンは、友人であるローレン・シュワルツを介して知り合ったコピー・ライターのトニー・アッシャーを新パートナーとして迎える。 2人の共同作業はブライアンの作ったメロディにトニーが歌詞を付けるというスタイルで行われたが、詩の内容は完全にブライアンのコンセプトに基づいていたという。
ビーチ・ボーイズのメンバーが日本やハワイを含む大規模なアジア・ツアーを行っている間、ブライアンはウェスタンやゴールド・スターのスタジオで、ハル・ブレイン、フランク・カップ、ライル・リッチ、グレン・キャンベル、アル・デ・ローリー、キャロル・ケイなどのロサンジェルスの腕利きセッション・メン“レッキング・クルー”を従えてレコーディングを進行させていた。 2月にメンバーが長い極東ツアーから戻ってくると、半数近い曲のバッキング・トラックが完成していた。 ところが、歌入れの段階でそのサウンドと歌詞が余りにも従来のビーチ・ボーイズのイメージから懸け離れている事を知ってメンバーは当惑する。 特にステージで歌う事が前提のマイクは猛烈に反発し、その音楽をブライアンのエゴと見なした。 しかし、ブライアンも譲らず、ある曲は歌詞を書き換え、残りの曲作りとレコーディングは続けられた。
4月13日の最終レコーディングを終え、遂にアルバムが完成。
作品の出来に不安を感じていたブライアンはアセテート盤を自宅のベットのヘッドフォンでマリリンと一緒に聴いたという。
「あの汽車の背後に僕が感じられるかい?」「ええ、でも消えていくわ」
アルバムの最後の曲「キャロライン・ノー」を聴きながら2人とも泣いていた。
キャピトル・レコードは完成した『ペット・サウンズ』を気に入らなかった。 会社が望む「夏」「海」「車」は登場せず、ヒットしそうなキャッチーな曲が入っていなかったからだ。 ブライアンのソロ名義のシングル曲「キャロライン・ノー」が不発に終わり、キャピトルは更に態度を硬化させる。 2枚目のシングル「スループ・ジョン・B」が大ヒットすると、ようやく会社も納得し、66年5月16日にアルバム『ペット・サウンズ』はリリースされる事になるのだ。
ところがレコード会社は『ペット・サウンズ』のプロモートに力を入れず、アルバム発表の8週間後に初期のヒット・ソングを集めた『ベスト・オブ・ザ・ビーチ・ボーイズ』をリリースする。 『ベスト・オブ・ザ・ビーチ・ボーイズ』は4位まで上昇しゴールド・ディスクを獲得、この件はブライアンを酷く傷つける事になるのだ。
本国アメリカでは10位止まりだった『ペット・サウンズ』であったが、イギリスでは熱狂的に支持され、UKアルバム部門で2位を記録。 英国におけるビーチ・ボーイズ人気が爆発するきっかけとなった。
アルバムの出来に満足したブライアンであったが、彼の鋭い感性は更なる時代の変化を敏感に感じ、新たなプロジェクトに突き進んでいく。 神に捧げるティーンエイジのシンフォニーを作るために。
スマイリー・スマイル
Smily Smile
ブライアンは66年2月17日のウェスタン・スタジオで一風変ったサウンドを持つ楽曲のレコーディングを行っていた。 ジャズ・フィーリングに溢れたその曲「グッド・ヴァイブレーション」は6ヶ月をかけて完成、グループ最大のヒットとなった。 元ビートルズの広報担当だったデレク・テイラーの宣伝効果も手伝い、“ブライアン・ウィルソン”=“天才”と賞賛され、ブライアンはロック界の寵児とみなされるようになった。 彼は新たなプレッシャーを感じつつも"天才"の称号に恥じぬよう「神に捧げるティーンエイジ・シンフォニー」の制作を決意、自分のビジョンを表現してくれる新しいパートナーとしてヴァン・ダイク・パークスという若い無名のミュージシャンを迎える事になる。
『スマイル』と名づけられた新しいプロジェクトは、アメリカ開拓の歴史を紐解き、あらゆる音楽の要素を取り入れた壮大な構想を持つもので、ブライアンとヴァン・ダイクは作品作りに没頭した。 キャピトル・レコードは「グッド・ヴァイブレーション」の大ヒットを受け、次作『スマイル』を大々的にプロモート、ブライアンの手書きの曲目リストを元にアルバム・ジャケットを50万部近く印刷し倉庫に保管、こうして発売準備は整えられた。
『ペット・サウンズ』でも服用していたマリファナに加え、ヴァン・ダイクが持ち込んだといわれているアンフェタミンにより、2人は毎日ハイな状態で作品を量産していった。 アルバムの中核を成す「英雄と悪漢」は様々な曲の断片を繋ぎ合わせた大作で、20回を越えるセッションが繰り返されるが、完璧を求めるブライアンはなかなか完成させられずにいた。 ビーチ・ボーイズのメンバーはこの長く困難なセッションを辛抱強くこなしていくが、レコーディングは難航を極め、プロジェクトは徐々に行き詰っていく。
最大の障害はデニスを除くメンバー全員が、ブライアンの音楽に理解を示さなかった点である。 ブライアンは孤立し、彼の繊細な心は次第に限界に近づいていく。 さらに、録音済みの膨大な音源を前にして、孤軍のブライアンとヴァン・ダイクにはそれが良いのか悪いのか判断が出来なくなっていた。 つまりアンフェタミンは極めて危険な覚醒剤であったのだ。
収録予定曲の「キャビン・エッセンス」や「サーフズ・アップ」の歌詞をめぐり、マイク・ラヴから激しく意味を問いただされたヴァン・ダイクは、屈辱を味わいながらプロジェクトを離れてしまう。 自分たちの音楽を理解してもらえない現実に絶望したブライアンは遂に制作を断念、67年5月にキャピトルからアルバム『スマイル』の発売中止が正式に発表された。 何ヶ月もかけて進められたブライアンによる素晴らしいアイディアに満ちた革新的プロジェクトは無残にも砕かれ、打ちひしがれた彼は自分の殻に閉じこもってしまう。
ヴェトナム戦争に反対する若者たちは愛と平和を訴え、サンフランシスコを中心としたヒッピー文化はやがてフラワー・ムーヴメントとして発展していく。 かつてのサーフ・ミュージックやホット・ロッド・ソングは廃れ、グループは時代遅れの存在になってしまった。
ワイルド・ハニー
Wild Honey
67年6月16日から3日間開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルは延べ20万人を超える観衆を集めた最初期の大規模な野外コンサートで、後のウッドストック・フェスティバルなどの先駆けとなった重要なロック・イベントとなった。 多くのアーティストが参加したこの歴史的な催しに、当初ビーチ・ボーイズは地元の人気バンドとして、1番のメインである土曜夜の最後に出演する予定であった。 ところが開催直前に出場辞退が発表され、このドタキャン騒動はフェスティバル1番の話題となった。 この事態は、自分たちの音楽が台頭しつつあるヒップな音楽やイギリス勢のアシッド・ロックと競合出来ない、時代遅れであることを印象付ける結果になってしまった。 コンサート当日、ド派手な演奏を終えたジミ・ヘンドリックスはステージから「サーフ・ミュージックは終わったということだ」と言った。
このようにビーチ・ボーイズ危機の風潮は、ファンも戸惑う風変わりな『スマイリー・スマイル』の発表でより決定的になったと思われる。
ある晩、グループのトレードマークであるストライプのお揃いの衣装をロンドンのグループから嘲笑されたとデニスは愚痴っていたという。
そして『スマイル』の失敗によりブライアンは自室に閉じ篭もり、1日中ベッドで過ごすようになっていく。その後10年以上も。
ブライアンの脱落でビーチ・ボーイズは不遇の時代に突入するが、「グッド・ヴァイブレーション」のヒット以降、ヨーロッパ圏で人気が爆発。 特にイギリスでの反応は凄まじく、最新アルバムの『ワイルド・ハニー』は全英7位まで上昇するヒット作となった。 母国の人気に陰りが見え始めたグループは欧州をターゲットに作品を発信、さらにライブ・バンドとして生き残りを賭けることになる。
さて、アメリカでの人気は下火になるが、逆にバンドの結束力は強まり、充実した作品群をその後数年間に渡り発表し続ける事になる。 グループにとって円熟期を迎えたのだ。
フレンズ
Friends
1967年12月15日、ビーチ・ボーイズはユニセフのチャリティ・コンサートに出演するためパリに滞在していた。 エリザベス・テイラーやインド音楽家ラビ・シャンカールなども出演するこのコンサート会場で、デニス・ウィルソンは宗教家のマハリシ・マヘシ・ヨギと出会う。 マハリシはTM(トランセンデンタル・メディテーション=超越瞑想)を説く導師で、ビートルズのジョン・レノンやジョージ・ハリスンもTMの熱心な信者であった。 不思議な雰囲気を持ったマハリシに惹かれたデニスは、さっそくメンバーに引き合わせる事に…。
TMに大変興味を持ったメンバー達(ブルース・ジョンストンを除く)は、マハリシの瞑想集会に積極的に参加するようになった。
瞑想するためにわざわざインド北部のリシケシュまで出向く熱の入れようだった。
特にマイク・ラヴのTMへの傾倒は著しく、グループのコンサートとマハリシの講義を合同で行うまでに至った。
マイクが提案したこの行為はビーチ・ボーイズを観に来るファンすら会場から遠ざける愚挙であった...(汗)。
その後マハリシのスキャンダル(女優のミア・ファローの妹を口説いたという)が発覚したことで、ジョンとジョージを含む多くの信者が離れるが、ビーチ・ボーイズはその後もずっとTMを信仰し、マハリシを支援し続けることになる。
ブライアンはそれほど瞑想に興味を持つ事もなく、『スマイル』のショックを抱えたまま心の恐怖と闘っていた。 おかしな事に当時の彼はフィル・スペクターに命を狙われているという妄想にとりつかれ苦悩していたという。 その頃覚えたコカインを常用するようになり、気が向いた時にしかレコーディングに参加しなくなっていた。 ずっと後になって精神分裂症と診断されるのだが、周囲の者は彼のおかしな行動や言動について“ブライアンの気まぐれ”としか考えていなかったのだ。
不吉な予感を感じさせる68年。グループはレコード業界から忘れられた存在になりつつあった。
20/20
20/20
1969年8月9日、ロサンゼルスで女優のシャロン・テート、ラビアンカ夫妻が惨殺された20世紀最悪の事件が起こる。 事件の首謀者チャールズ・マンソンは、カルト集団“マンソン・ファミリー”を率いるリーダーであった。
68年の終わり頃にデニスはマンソンと知り合い、お互いにパワフルな魂を持つ2人は意気投合する。 気前がいいデニスは、マンソンとファミリーたちに自宅と食料を開放していた。 自称アーティストのマンソンは、自身が作った曲のレコーディングのためにデニスの親友テリー・メルチャーに約束を取りつけたものの、実現できなかったことに腹を立て、デニスらを脅迫するようになる。 事件後、真の標的はテリー・メルチャーとも言われ、マンソン・ファミリーの報復を恐れたデニスは以後マンソンについて法廷においても一切公言していない。 カリフォルニア州の一時的な死刑制度の廃止により、終身刑になったマンソンは2017年11月に獄中で死去する。
一方、ブライアンは1人自宅のスタジオで多くの曲をレコーディングしていたが何をやっても気に入らず、録音と消去を繰り返していた。 彼のホーム・スタジオを最先端システムに改造させた天才エンジニアのスティーブ・デスパーは、このブライアンの行為を「発表する曲の数より抹殺する曲の数の方が遥かに多い」と言って困り果てていたという。
その頃、ブライアンに対するプロデューサーとしての印税未払いについてのキャピトル・レコードへの訴訟がビーチ・ボーイズ側の勝訴で結審し、原告への50万ドル支払い命令が下される事になった。 キャピトルとの関係は悪化、8年近く続いたビジネス契約は終焉を迎える。
また、ブライアンの父マリー・ウィルソンは、自身初のソロ・アルバム『ザ・メニー・ムーズ・オブ・マリー・ウィルソン』をリリースするが、これは自信を失った息子への叱咤の意味もあったようだ。 やはり親子の絆は強いのであろうか? その後2人は共同で曲作りを行い「ブレイク・アウェイ」を制作。 この曲はブライアンにとって久しぶりの自信作となり、かつての輝きを取り戻しつつあった。
ライブ・イン・ロンドン
Live in London
名作『ペット・サウンズ』以降、充実した作品を発表し続けるものの、米国におけるグループの人気は完全に下火になっていた。 更にビーチ・ボーイズ側の訴訟により、アメリカのレコード配給会社キャピトル・レーベルとの関係が断裂。 過去の全アルバムを全て廃盤にする報復処置により、ファン激減に拍車が掛かることに。 このキャピトルの行為はその後のブライアンに更なる悲劇をもたらす事になるのであった。
さて、米国の状況とは逆に、ヨーロッパ、特にイギリスでは歓迎され、バンド人気はうなぎ上りとなる。 そのため、60年代後半のビーチ・ボーイズは、ヨーロッパを中心としたコンサート活動がメインとなっていく。 このライブ活動はグループの生命線となり、苦境の時代を耐え忍ぶのだ。 やがてリバイバル・ヒットを引き起こす原動力となるのだが、それには少し時を待たなければならない。
サンフラワー
Sunflower
ブライアンは、父マリー・ウィルソンとの共作「ブレイク・アウェイ」の制作で再び自信を取り戻していた。
その後、リック・ヘンと共同で「ソウルフル・オールド・マン・サンシャイン」を合作、この曲は未発表ながらジャズ・フィーリングたっぷりの傑作となった。
リックはマリーがビーチ・ボーイズのライバルとして64年からプロデュースしていたサンレイズのメンバーの一人で、以前は共作する事自体考えられないことだった。
そして新しいレーベル、ブラザー/リプリーズから初めて発表されたアルバム『サンフラワー』の出来栄えは素晴らしいものになった。
さて、キャピトル・レコードの報復によりビーチ・ボーイズの過去の作品が全て廃盤になった事で、印税生活をしていたマリーの収入が激減してしまう。
そこでマリーはグループの全著作権を管理している会社“シー・オブ・チューン”の売却を考えるようになった。
そしてついに69年11月、ブライアンに無断でアーヴィング・アーモ社に“シー・オブ・チューン”の100%の権利を70万ドルで売却してしまうのであった!!
この権利はその後2,000万ドル以上の価値を持つことになる貴重なもので、会社の反対を押し切ったマリー最大の愚挙であった。
当時のマネージャーのニック・グリロがアーモ社と同額で権利50%を残す契約をフィルムウェイズ社と進めていたにも関わらず。。。
この父親の行為は、自身の作品を我が子のように愛していたブライアンの心をズタズタに引き裂いた。 ブライアンは自暴自棄になり「もう僕のものじゃないから」と言って、大切な自分のゴールド・ディスクを全てセッション・ドラマーのハル・ブレインに譲ろうとハルの家を訪ねたこともあったという。
この一件で再び意気消沈したブライアンは再び精神状態が悪化、自室に閉じ篭り1日中ベットで過ごすようになるのだ。
サーフズ・アップ
Surf's Up
アメリカにおけるグループの人気低迷を打開すべく、70年8月に新しい広報担当として元DJのジャック・ライリーが就任する。 彼は優れたテレビ・ラジオの放送作品に贈られるピーボディ賞を受賞した経歴を持つジャーナリストで、同年7月29日にはブライアンへの単独インタビューも行っていた。
ライリーの発案によりロサンゼルスの有名なクラブ、“ウィスキー・ア・ゴー・ゴー”に4日連続で出演、素晴らしい演奏で連夜の大盛況となった。 この活躍が評判を呼び、71年4月27日にはニューヨークのフィルモアでグレイトフル・デッドのステージにも出演し、ビーチ・ボーイズの音楽が新しい時代の音楽とも十分に渡り合えることを証明した。 このニュースは大々的に取り上げられ、本国アメリカでもようやくライブ・バンドとしての人気が戻りつつあることを予見させる出来事となった。
しかし、グループの著作権を全て売却してしまった父親の暴挙により、再び自分の殻に閉じ篭ってしまったブライアン。
創作活動において円熟期に入ったビーチ・ボーイズであったが“充実した時代”は終わりを告げる。そして徐々に低迷期に入っていくのであった。
カール・アンド・ザ・パッションズ - ソー・タフ
Carl And The Passions - "So Tough"
アルバム『サーフズ・アップ』のヒットの後、ニューヨークのセントラル・パークやカーネギー・ホールでのコンサートの成功で、再びビーチ・ボーイズに注目が集まるようになっていく。
グループ内ではこの成功が広報担当のジャック・ライリーの功績と受け止められ、彼の影響力が次第に高まっていく。
長くグループの経営に尽力してきたマネージャーのニック・グリロであったが、金銭上のトラブルにより72年4月に解雇、ついにライリーが新たなマネージャーにのし上がる事になる(この一件についてグリロはライリーにハメられたと言っている)。
そしてブルース・ジョンストンはライリーとの確執で7年間在籍したグループを脱退してしまった。
ライリーは南アフリカ出身の黒人グループ“フレイム”のメンバーであったブロンディ・チャップリン(ボーカル、ベース)とリッキー・ファター(ドラムス)という新メンバーをグループに迎えた(カールは69年にフレイムのアルバムをプロデュースしている)。 彼らの加入により、コンサートにおけるサウンドが更にタイトでファンキーなスタイルに変貌していく事になる。
そして新メンバーを加えた新アルバム『カール・アンド・ザ・パッションズ - ソー・タフ』は、何故か66年の名盤『ペット・サウンズ』とのセット2枚組で発売された。
オランダ
Holland
1972年頃、マネージャーに就任したジャック・ライリーの提案でオランダに移住する計画が立てられた。 気分転換に暫くロスを離れた方がいいという意見に、ブライアンを除く関係者全員が賛成する。 この時間とお金を浪費する大掛かりで馬鹿げた引越しが6月に実行された。
現地のスタジオは予約待ちでなかなか押さえられず、彼らはオランダの田舎町バームブリューゲの納屋をスタジオに改造することにした。 べラジオ・ロードにあるブライアンの自宅スタジオは解体され、総重量7,300ポンド(約3.3t)を超える機器は空輸され、現地で組み立てられた。
8ヶ月間滞在したオランダでのレコーディングであったが、完成した作品を聴いたワーナーの役員は、ヒットしそうな曲がまったく無いことに落胆しアルバム発売を拒否した。
役員たちはそもそも『カール・アンド・ザ・パッションズ - ソー・タフ』のリリースを認めた事自体が間違いだったと頭を抱えてしまう。
この大ピンチを救うべく『スマイル』の共作者ヴァン・ダイク・パークスが呼び出された。
ヴァン・ダイクは、71年にブライアンが作っていた「セイル・オン・セイラー」のデモ・テープをワーナーの役員に聞かせ、ようやくレコード会社を納得させる事に成功しアルバム『オランダ』を発表するのであった。
ライリーはアルバムリリース後もオランダで暮らすと主張してメンバーの反感を買い、大変な出費を伴ったプロジェクトの責任を追求されてマネージャーを解雇される。 経歴詐称(ピューリッツァ賞やピーボディ賞を取ったという経歴は嘘であった!)など何かとお騒がせ男のライリーとビーチ・ボーイズの短い関わりは終わった。
イン・コンサート
Beach Boys in Concert
1973年5月15日、ビーチ・ボーイズの初代マネージャーでウィルソン兄弟の実父、マリー・ウィルソンが心臓発作で他界する。 デニスは1年程前から彼なりに父との時間を作っていた。又、ブライアンはオランダから帰国後、マリーが当時温めていた「ラザロー」というラヴ・ソングをレコーディングする約束をしていた。 あれほど父を嫌っていたブライアンとデニスであったが、2人はしばらくの間マリーの死を受け入れる事ができなかったという。
当時のデニスはプライベートでは低迷しており、バーバラ・チャレンとの結婚生活は破綻していた。 しかし翌年になると新しい恋人となる女優のカレン・ラムと出会い、美しい帆船のハーモニー号を購入、人生の転換期を迎えることになるのだ。
さて、ライブ・バンドとして再び注目を集め始めたビーチ・ボーイズであったが、新メンバーのブロンディ・チャップリンとリッキー・ファターが相次いで脱退する。 ブライアンが隠遁生活の状態とはいえ、グループは再びレコード・デビュー当時のオリジナル5人組となった。
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