アルバムで辿るビーチ・ボーイズ物語
The Beach Boys History


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頭の中に聴こえる声との闘い。長く苦しい暗黒時代、ブライアンが再び立ち上がる日は来るのか!?

15・ビッグ・ワンズ
15 Big Ones

ブライアンの精神状態はますます悪化し、長い間、自宅のベッドで過ごしていた。 コカインとアルコールに依存した生活からは音楽が消え、彼の体重は240ポンド(約109Kg)を超えていた。チェーン・スモーカーのため、あの美しいフォルセット・ボイスも失ってしまう。 妻マリリンはブライアンを救うべく、数々の麻薬中毒患者を救ってきた精神分析医のユージン・ランディ博士に治療を依頼する事にする。 “本人が直接予約する事”がランディの治療方針・ルールであったため、ブライアンをその気にさせるための秘策が考えられた。 ブライアンの興味をランディに向けるための3週間にも渡るマリリンの必死の努力の末、遂にブライアン自らが治療を受ける事を決心する(マリリンは自ら患者を装い、ランディの治療がいかに楽しみかを演じたそうだ)。

ビーチ・ボーイズ

「誰も僕を思い通りにする事は出来なかったが、ランディだけは違った。彼は僕の心を見抜いていた」と後にブライアンが語ったとおり、ランディはブライアンの心に直接語りかけ、ブライアンを現実に向き合わせるための様々な試みが行われた。 少しずつではあったが彼の精神状態は回復に向い、長く忌み嫌ってた音楽に向き合う事まで出来るようになる。

一方、ビーチ・ボーイズとの関係が修復しつつあったキャピトル・レコードが74年6月24日にリリースしたキャピトル時代のヒット曲を集めたベスト・アルバム『終わりなき夏』が全米チャートの1位となり、67週もチャートに留まる空前の大ヒットを記録する。 翌年には続編の『スピリット・オブ・アメリカ』が全米7位まで上昇し、突如としてビーチ・ボーイズのリバイバル人気が巻き起こった。 又、シカゴと共同で12都市を回る大規模なコンサートが大成功、『ローリング・ストーン』紙の“バンド・オブ・ジ・イヤー”に選出されるなど、60年代の全盛期並みのバンド人気が復活するのであった。

マイク・ラヴと他のメンバーはこの好機を生かすべく、“ブライアン・イズ・バック”キャンペーンを考案、ランディが監視するという条件で撮影されたNBCのテレビ番組「ザ・ビーチ・ボーイズ・イッツOK」にはブライアンの単独インタビューの他に、彼がサーフボードを持って海に飛び込む寸劇シーンまで含まれていた。 ニューアルバム『15・ビッグ・ワンズ』はキャンペーンの効果もあり、見事ゴールド・ディスクを獲得するのであった。 アルバムからは「ロック・アンド・ロール・ミュージック」がシングルカットされ「グッド・ヴァイブレーション」以来10年ぶりとなるトップ5ヒットを記録する。

コンサートも昔のように連日大盛況となり、ブライアンの復帰でグループが再び動き出すものと思われたのだが…。


ビーチ・ボーイズ・ラヴ・ユー
Beach Boys Love You

臨床分析医ユージン・ランディ博士の徹底的な管理の下、ブライアンの心と体の健康状態は回復に向かっていった。 治療の一環として課せられていた1日90分のピアノを使った作曲も普通にこなせるようになり、76年の夏にはアナハイムやオークランドのコンサートで9年ぶりにステージに立っている。 又、秋にはランディと共同で『ブライアン・ラヴズ・ユー』というソロ・アルバム用のレコーディングも不定期で行われていた。 11月にはアメリカNBCテレビの番組『サタデー・ナイト・ライヴ』に出演、自ら新曲の演奏を披露するなど健在ぶりをアピール、誰もが完全復活を確信するようになる。

『ザ・ニュー・アルバム』と題されたビーチ・ボーイズのメンバーによるアルバム作りが難航する中、新しいマネージャーとなったマイク・ラヴの実弟、スティーブ・ラヴは、1月までにアルバムを完成させるようブライアンに要求する。 前作『15・ビッグ・ワンズ』の成功を受け、レコード会社のワーナーは少しでも早く新作を発表したかったからだ。 だが、ランディ医師は、クリスマスを祝った事の無いブライアンにとって12月いっぱいは家族と過ごす事が大事だと主張、常に精神科医の許可が無いと何も出来ない事に不満を持ったメンバーらはブライアンからランディを引き離そうとする。 マイクはマリリンに協力を求め、法外な治療費を理由に遂にランディを解雇してしまった。

ビーチ・ボーイズ

ランディという障害が無くなったことでスティーブはブライアンにアルバム作りを強要、ブラザー・スタジオでレコーディングが行われた。 リハビリを兼ねた『ブライアン・ラヴズ・ユー』から多く選曲されたアルバムはブライアンのプロデュースにより『ビーチ・ボーイズ・ラヴ・ユー』としてリリースされる。

ランディの支配から開放されたブライアンは再び自分をコントロール出来ずにアルコールと薬物を使用し始め、1日中ベッドで過ごすようになってしまう。 マイクの下の弟で元バスケット選手のスタンリー・ラヴ、元フットボール選手のロッキー・パンプリン、従兄弟のスティーヴ・コーソフの3人の大男に監視され、ブライアンは以前より更に心を閉ざしてしまうのであった。


M.I.U.アルバム
M.I.U Album

『ラヴ・ユー』が商業的に失敗した後、マネージャーのスティーブ・ラヴは新しいレコード会社との契約に躍起になっていた。 何とかCBSソニー配下のカリブー・レコードと契約を取り付けるが、ワーナーとの契約も残っており、ワーナー向けに『アダルト・チャイルド』というアルバム制作を行うがレコード会社から発売を拒否されてしまう。 そこでTM(超越瞑想)の信者であるマイク・ラヴの提案により、77年9月からアイオワ州フェアフィールドにあるマハリシ国際大学でレコーディングすることになった。 大学にレコーディングスタジオを急造する、やけにお金のかかるこの馬鹿げた行為に対し、グループ関係者からは「第2のジャック・ライリー事件」(例のオランダ騒動)と揶揄された。

CBSソニーからもアルバム発売の要求があったため、2度目となるクリスマス・アルバム、『メリー・クリスマス・フロム・ザ・ビーチボーイズ』の制作も同時進行で行われた。

スティーブを支持するマイク・ラヴとアル・ジャーディンは、スティーブのマネージャー資質を疑うカール&デニスと対立、ライブの移動も2組別々の飛行機を使うなど、グループは解散寸前であった。 又、同月にはデニスの初のソロ・アルバム『パシフィック・オーシャン・ブルー』が発売され、その素晴らしい出来栄えに嫉妬心からグループ間に緊張が生まれた。

大学でのレコーディングが終わり何とかワーナー向けのアルバム『M.I.U.アルバム』をリリースするものの、アルバム・チャートは151位と惨敗。 CBSソニー向けの『メリー・クリスマス・フロム・ザ・ビーチボーイズ』は、案の定レコード会社から発売を拒絶され、またしてもお蔵入り作品が誕生してしまうのであった。

カールはプライベートの問題からコカインに依存、78年のオーストラリア、ニュージーランド公演ではデニスがヘロインを持ち込みブライアンと共に酩酊状態となり公演中止直前まで追い込まれてしまう。 ビーチ・ボーイズは今までに無い危機を迎えるのだ。


L.A.(ライト・アルバム)
Light Album

1978年、「M.I.U.アルバム」レコーディング後、スタンリー・ラヴ、ロッキー・パンプリン、スティーブ・コーソフの3人の筋肉男による24時間監視の中、ブライアンの精神状態は悪化の一途を辿っていた。 冷蔵庫には南京錠が掛けられ、アルコールや薬物を制限された生活であったが、ブライアンは監視の目をかい潜りタバコやコカインを入手していた。 バスローブに裸足という姿でよく1人近所をうろついていた彼は、免許も財布も持たずに家を抜け出し見ず知らずの人とサンディ・エゴに行った事もあった。 その時は泥酔して排水溝にうつ伏せの状態で発見され、アルバラド・コミュニティ病院に6週間入院する事になる。

78年12月にはついにカリフォルニア州カルバーシティにあるブロットマン・メディカル・センターの精神科病棟に入院してしまい、翌年1月23日にはマリリンと離婚、14年間の結婚生活に終止符を打つことになった。

前アルバムではブライアンの頑張りが見られたが、彼の精神的・肉体的な不調によりマイアミのクライテリア・スタジオで行われた新アルバムのレコーディングは難航を極め、新しいレコード会社のCBSからは発売を拒否されてしまう。 この緊急事態に急遽ブルース・ジョンストンが呼び戻され、元シカゴのプロデューサーであったジェームズ・ガルシオとの共同プロデュースにより何とか『L.A.(ライト・アルバム)』がリリースされた。 しかし、アルバム・チャートは最高でも100位。ブルースもグループを救う事が出来なかった。

初のソロ・アルバムが高評価だったデニスは2作目のソロ・アルバム『バンブー』を制作していたが、リリースは見送られてしまう。 カレン・ラムとの結婚生活は喧嘩が絶えず、ステージ上でマイクに暴言を吐いた事で1年間グループから除名されてしまうのであった。 カレンとは80年6月に離婚、彼はさらにアルコールとドラッグにのめり込んでしまう。デニスは危機を迎えていた。


キーピン・ザ・サマー・アライブ
Keeping Summer Alive

CBSは前作『L.A.(ライト・アルバム)』の失敗を受け、ビーチ・ボーイズに懐疑的になった。 次のアルバムはブライアンの全面的な参加が発表の絶対条件としたのだった。 当時のブライアンの精神状態は最悪であったが、何とか昔の勘を取り戻してもらおうとカール、マイクらのメンバーの計らいで、かつてのホームグラウンド、ウェスタン・スタジオでレコーディング・セッションを開始する。

ブライアンは最初の3日間、全盛期の頃のような集中力を発揮、まるで鳥のように歌っていたという。 だが、5曲の新曲を提供したものの再び落ち込み、また誰とも話をしなくなってしまった。 ブルース・ジョンストンを中心に、カール、アル、マイクが奮闘、どうにかCBSを納得させることに成功し、『キーピン・ザ・サマー・アライヴ』を80年3月に発表する。

ブライアンはアルバム発表後、精神状態はどんどん悪化、ブロットマン・メディカル・センターの精神科病棟で知り合った黒人女性看護士キャロリン・ウィリアムズに付き添われ、薬物に依存した孤独な世界を彷徨さまよってしまう。 カールは81年3月に『カール・ウィルソン』、マイクは同年10月に『ルッキング・バック・ウィズ・ラヴ』とそれぞれソロ・アルバムを発表、またもやビーチ・ボーイズ解散が噂され始める。 そしてグループ唯一のサーファーであるデニスは、兄ブライアン以上に酒とドラッグに浸るどん底の生活を送っていた。 カレン・ラムと離婚後にマイクの娘、ショーン・ラヴと結婚、息子ゲイジを溺愛するあまり、夫婦間の争いは絶えなかったという。

そして遂に悲劇が起こる。

83年12月28日のマリーナ・デル・レイ沖で、酒を飲みながら極寒の海でダイビングを慣行、2度と海面に浮上する事は無かった。 享年39歳。 かつて彼がこよなく愛した帆船“ハーモニー号”を取り戻す事を夢見ながら、ついにその想いは成就することは無かった。 ブライアンに匹敵するコンポーザーであり、グループの中でも絶大な人気を誇っていたデニスの死はとても大きな痛手である。このまま解散か?

いや、このかつて無い危機を乗り切るには、残されたメンバー全員が団結するしかない。


ザ・ビーチ・ボーイズ'85
The Beach Boys

デニスが亡くなる以前からブライアンもまた破滅的な生活を送っていた。1日中ベッドで過ごし、様々な薬物とアルコールに依存、体重は340ポンド(約154キロ)を超えていた。 彼の身の回りのことは全て住み込みで付き添う黒人女性看護士キャロリン・ウィリアムズによって行われたが、彼女の寛容さが益々ブライアンの自堕落的な暮らしを助長する結果を招いてしまっていた。 ビーチ・ボーイズの関係者は、ブライアンを第2のエルビスにしたくないという思いからこの状況をなんとか打開するために、かつて彼を一時的に立ち直らせた実績を持つ臨床心理医、ユージン・ランディに助けを求める事にする。

ビーチ・ボーイズ

ランディによって6ヶ月間かけて練られたシナリオは、ビーチ・ボーイズからブライアンを解雇し資金源を断つ事、治療に応じる事が唯一の道と本人に悟らせる事、であった。 82年11月5日に実行されたこのブライアン救出作戦は功を奏し、キャロリンからブライアンを切り離す事に成功、一行はハワイのコナ市に移動して厳しい更生プログラムが始められた。 荒れ果てた生活により命の危険すらあったブライアンであったが、治療はみるみる成果を上げ、ランディから食事のマナーや体の洗い方、人との会話に至る、日常的な事柄を学び、急速に回復に向かったという。 ハワイでの治療3ヶ月目に地元のコンサートに出演し、その場でメンバーに曲のアレンジをアドバイス、素晴らしい演奏を演出するという出来事もあった。 ロスに戻っても治療は続けられ、頭の中に聞こえる声と対峙する方法を学び、再び音楽に向き合う事が出来るようになるのだった。 84年春には過酷なサバイバル・キャンプに参加したり運転免許を取得するなどタフさも身につける。 夏の祝賀コンサートでは娘のカーニー、ウェンディと再会、2人が音楽活動を始めようとしている事を知り、全面的な協力を約束した。

85年6月には復調したブライアンが全面的に参加した5年ぶりのアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ'85』を発表。 グループは同年7月13日に行われた20世紀最大のチャリティ・コンサート“ライブ・エイド”にも出演、ブライアンもステージに立ち「カリフォルニア・ガールズ」や「素敵じゃないか」などを披露、健在ぶりをアピールした。

今度こそ、ビーチ・ボーイズ再出発となるはずであった。


スティル・クルージン
Still Cruisin'

臨床分析医ランディ医師の治療の成果もありブライアンは再び創作活動を再開、薬物から完全に隔離された、以前に比べると遥かに健康的で安定した生活を送っていた。 しかし常にランディの監視が必要で、アルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ'85』でもブライアンの作品の共作者として博士の名前がクレジットされていたとおり、100%ランディに依存していた。 そして、ブライアンはランディと共同で1988年7月12日にサイアー・レーベルから初のソロ・アルバム「ブライアン・ウィルソン」をリリースし、音楽関係者から高い評価を得る。

ブライアン不在のビーチ・ボーイズは、86年7月7日にベスト・アルバム『メイド・イン・U.S.A.』(全米96位)、同年6月にシングル「ロックン・ロール・トゥ・ザ・レスキュー」(全米68位)、9月に「夢のカリフォルニア」(全米57位)と、作品は発表するもののヒットに恵まれない状況が続いていた。 ところが88年に公開されたトム・クルーズ主演の青春映画『カクテル』の挿入歌「ココモ」が必死のプロモートの成果もあり世界的に大ヒット、「グッド・ヴァイブレーション」以来、22年ぶりとなる全米ナンバー・ワンを獲得、突如としてグループが脚光を浴びる事となった。

ブライアンは自分が「ココモ」のセッションに呼ばれなかった事、自身初のソロ・アルバムの発売と同時期に「ココモ」がリリースされたことなどにショックを受けていて、次第にビーチ・ボーイズに不信感を持つようになっていった。

実はビーチ・ボーイズのメンバーはココモのセッションにブライアンの参加を求めていたのであるが、ランディが拒絶していたのだという(自分の名前を「ココモ」の作者にクレジットする事がブライアンのセッション参加の条件だったという)。 つまり、ランディはブライアンを意のままに操り、グループや家族から遠ざけようとしていたとも伝えられる。

ブライアンは以前とは違い、今や完全に自立できる状態になっていた。 ビーチ・ボーイズのメンバーは彼がランディの操り人形になっている事に危機感を持つようになる。 法外な治療費でかさむ経費の肥大化も問題視されていた。 遂にビーチ・ボーイズはブライアンのプライバシーと財産を守るため、ランディに対し訴訟を起こすのだった。


サマー・イン・パラダイス
Summer in Paradaice

ブライアンは臨床心理医のユージン・ランディと共同で2作目のソロ・アルバム制作に追われていた。 当時の彼はグループや家族と断絶状態になっていたが、これはランディ医師による巧みな企てによるものだったのだ。 あいにくレコード会社との折り合いがつかず、『スウィート・インサニティ』と題されたアルバムは日の目を見る事はなかったが、ブライアンのセラピストへの依存性はますます高まっていくのである。

この状況を重く見た関係者、特に娘のカーニーとウェンディは父親を取り戻すべく、ランディへの訴えを起こすのだ。 この提訴は患者と医師の関係を大きく逸脱しているとして、92年にビーチ・ボーイズ側の勝訴で結審する。

一方、ランディ医師の呪縛から解放され、晴れて自由の身となったブライアンは、元妻のマリリンや2人の娘たちに逢えるようになり、メンバーらの思惑をよそに再びソロ活動に突き進んでいく。

そして、グループに再び試練の時が来る。

ブライアンの弟、ギタリストでリード・ボーカリストのカール・ウィルソンが98年2月に肺癌のために他界する。 グループのまとめ役、精神的支柱を失ったことでメンバーのアル・ジャーディンはグループを脱退、新たなグループ「ビーチ・ボーイズ・ファミリー&フレンズ」を結成する(2000年にマイクからの訴訟により「アラン・ジャーディンズ・ファミリー&フレンズ・サマー・バンド」と改名)。 弟の死の悲しみを乗り越えたブライアンもグループには戻らず、残ったマイクとブルースで"オリジナルの"ビーチ・ボーイズとしてライブ活動を続けることになるのだ。

ブライアンは95年に元モデルのメリンダ・レッドベターと再婚、生まれて初めて幸せな家庭を手に入れる。 さらに彼の音楽の良き理解者ダリアン・サハナジャとそのグループ、ワンダー・ミンツやギタリストのジェフリー・フォスケットらのサポートを得て、再び充実した音楽活動をスタートさせた。 彼の長く苦悩に満ちた心の旅が終わりを迎えるのだった。

だが、まだやるべき事がある。過去のトラウマと正面から向き合う事を決意するブライアンであった。人生を狂わした元凶に決着をつけるため。


スマイル・セッションズ
Smile Sessions

1999年になるとブライアンはポップ・グループのワンダー・ミンツやギタリストのジェフリー・フォスケットらと共に精力的なツアーをこなすようになる。 そして2000年には名盤『ペット・サウンズ』の全曲をライブで完全再現する、“ペット・サウンズ・ライブツアー”を敢行。 ライブを通し、自分の曲がいかに愛されているか、ブライアン自身が肌で感じることになる。 そんなあるツアーの楽屋での出来事。ブライアンは突然ピアノで「英雄と悪漢」を弾き始めたという。 少し前のパーティーでデビッド・リーフの彼女がブライアンに「英雄と悪漢」をリクエストした事がきっかけとなったらしいが、自分を挫折させたあの忌まわしい記憶の象徴的な曲に対峙する事で、ある思いが去来する。

ビーチ・ボーイズ

「『スマイル』を完成させよう」、30年近くも心を閉ざしてしまった根源に立ち向かおうと一大決心したブライアンは、彼の良きサポーターたち、温かい家族、そしてかつての共作者、ヴァン・ダイク・パークスの協力により、『スマイル』をステージで演奏するという驚くべきプロジェクトに挑むこととなる。 ヴァン・ダイクにも同様の想いがあったのだろう、2人で未完成パートの書き足しも行われ、難問だった曲の順番も決め、2004年、『スマイル・ツアー』のライブ演奏が実現する。『ブライアン・ウィルソン・プレゼンツ・スマイル』と題されたCDも発表され、世界中のファンを驚かせたのだ。 このブライアンの感動的で勇気ある行動は、スマイルDVD収録の『ビューティフル・ドリーマー』というドキュメント映画で詳しく語られている。 ロンドンのコンサート初演が無事成功した瞬間、カメラが捉えた観客席のヴァン・ダイクの虚脱と感慨が入り混じった表情は、ファンにとって胸が詰まるシーンであった。

さて、ブライアンによる『スマイル』が完成したものの、彼は常に「あの声じゃなきゃ駄目なんだ」と言っており、ビーチ・ボーイズによる『スマイル』の完成に心を募らせていた。 そして43年前のセッション・テープに向き合い、当時の音源を繋ぎ合わせ、2011年8月31日にブライアンのプロデュースで遂にビーチ・ボーイズ版のスマイルが『スマイル・セッションズ』という形でリリースされたのである!


神が創りしラジオ
god made the radio

ブライアンはワンダー・ミンツのメンバー、ダリアン・サハナジャやギタリストのジェフリー・フォスケットらの強力なブライアン・ウィルソン・バンドと共に幅広く活躍、2008年には傑作『ザ・ラッキー・オールド・サン』を発表している。 アルは「アラン・ジャーディンズ・ファミリー&フレンズ・サマー・バンド」として活動、2011年には初のソロ・アルバムを発表する。 マイクとブルースは本家"ザ・ビーチ・ボーイズ"としてライブ活動を精力的に行っていた。

ビーチ・ボーイズ

ブライアンとアルは、マイクとの確執によりバンドを脱退しており、特にブライアンとマイクの溝は深く、90年代から互いに訴訟を繰り返していた。 94年には、曲の共作者としてクレジットされていないとするマイクの訴えにより、66年までに発表された作品のうち35曲に彼の名が記される判決が下され、賠償金50万ドルがブライアンからマイクへ支払われている。

このままかつてのメンバーが揃うことはないと思われていた2012年4月、ブライアン、マイク、アル、ブルース、そしてデビューから約1年間グループに在籍していた初期メンバーのデヴィッド・マークスが集結、ビーチ・ボーイズとして世界ツアーを敢行する。 8月には来日し、パワフルな公演を見せてくれた。 この年は、キャピトル・レコードから「サーフィン・サファリ」でレコード・デビューしてから50年目の節目の年で、7月5日には待望のニュー・アルバムが発表される事になった。

タイトルは『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ~神が創りしラジオ~』、全曲オリジナルの新作というファンにとってうれしい内容である。 純粋な新作アルバムとしては85年の『ザ・ビーチ・ボーイズ'85』以来となる、実に27年ぶりの作品となった。

この素晴らしい新作のリリースで世紀のバンド、ザ・ビーチ・ボーイズは大団円を迎えるが、ブライアン・ウィルソン、マイク・ラヴ、アル・ジャーディン、ブルース・ジョンストン、そしてデヴィッド・マークスの音楽人生は終わらない。 そして、デニス・ウィルソンとカール・ウィルソンのロック魂は、ずっと人々の心に生き続ける。

なぜなら彼らの音楽はエンドレス・サマー、エンドレス・ハーモニーなのだから。




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