アルバムで辿るビーチ・ボーイズ物語
The Beach Boys History
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半世紀以上の歴史を持つ伝説のアン・アメリカン・バンド、ザ・ビーチ・ボーイズ。
彼らの残したアルバムを辿りながらグループの歴史を振り返ります。
それは、時代に翻弄されたブライアン・ウィルソンの軌跡。
サーフィン・サファリ
Surfin' Safari
ロサンジェルス中央部から15キロほど南東に位置する、新興住宅街“ホーソーン”。 そこで生まれ育ったブライアン、デニス、カールのウィルソン3兄弟と、従兄弟のマイク・ラヴ、そしてブライアンのハイスクール時代からの親友だったアル・ジャーディンの5人によって結成されたロック・バンド“ペンデルトーンズ”。 バンド名は当時若者に人気のストライプのシャツから引用されたもの。
1961年初頭の事である。
少年たちはハイト、ドリンダのモーガン夫妻が経営する音楽出版会社のオーディションに合格し、無名のレコード会社“Xレコード”と契約する。
その年の12月、ローカル・レーベルのキャンデックスから、グループ名“ザ・ビーチ・ボーイズ”としてシングル「サーフィン」を発表。 75位のスマッシュ・ヒットとなるが、メンバーのアルはこの時の印税収入の少なさに将来の不安を感じ、学業に専念するためにグループを脱退、替わりにブライアンの自宅の近所に住んでいたデヴィッド・マークスが加入する。
ブライアンたちはグループ名が“ペンデルトーンズ”から“ビーチ・ボーイズ”に無断で変えられたことにひどく憤慨したが、すでにあとの祭りであった。
「サーフィン」のヒットで、元々音楽好きだったブライアンの父親、マリー・ウィルソンが頼まれてもいないのにグループのマネージャーを買って出る。 マリーは経営不振のキャンデックスに見切りをつけ、出版権を持つ会社に無断で新たなレコード会社への売り込み活動を始めた。 強引なやり方ではあったが何とか大手キャピトル・レコードとの契約を取り付ける事に成功するのだ。
キャピトルからリリースされた初めてのシングル曲「サーフィン・サファリ」が全米14位まで上昇。 このシングルのヒットにより、ファースト・アルバム『サーフィン・サファリ』が制作される。 当時ブライアンは20歳、マイク21歳、デニス17歳、カール15歳、デヴィッドは14歳であった。
後にカリフォルニアの音楽を変えるアン・アメリカン・バンドのデビューである。
サーフィン・U.S.A.
Surfin' U.S.A
曲作り担当のブライアンは、当時マイクと共作していたが、親友のゲイリー・アッシャーとも数多く曲作りを行っていた。 ブライアンの父親でマネージャーのマリー・ウィルソンは息子が部外者であるゲイリーと共同で曲を書くことが気に入らず、楽曲の権利を管理するために“シー・オブ・チューンズ”という出版社を設立する。 勿論代表者はマリー・ウィルソンで、重要な取り決めは彼の承諾が必要な契約を盛り込んだものだった。
また、ブライアンが「サーフィン・U.S.A.」のアイディアを温めている頃、ビーチ・ボーイズの先輩格であったジャン&ディーンのジャン・ベリーがこの曲を気に入り自分たちがリリースしたいと申し出る。 ブライアンは「サーフィン・U.S.A.」の代わりに自作の「サーフ・シティ」を提供するのだが、後にその「サーフ・シティ」が全米ナンバー・ワンに。 初の1位にブライアンは狂喜するがマリーは激怒する。
マリーはジャン&ディーンを“海賊”と呼び、ブライアンを酷く罵倒したという逸話が残っている(マリーは常々ブライアンに「お前は負け犬だ」と言い、どんなに成功してもけして褒める事は無かったという)。
以後、ブライアンの楽曲は門外不出となったのは言うまでもない。
さて、キャピトル・レコードはビーチ・ボーイズの人気を一時的なものと考え、“売れるうちに売っておけ”とばかりにシングル、アルバムを次々発売していく。
4枚目のシングル「サーフィン・U.S.A.」は全米3位の大ヒットを記録、この曲を収録した同名のセカンド・アルバムは全米第2位まで上昇した。 この成功でキャピトルはビーチ・ボーイズに大きな期待を持つようになる。 キャピトルはビーチ・ボーイズとの契約条件に年間3枚のアルバム・リリースを盛り込んだ。 これはブライアンにとって重圧になる新譜要求が始まる事を意味していた。
サーファー・ガール
Surfer Girl
『サーフィン・U.S.A.』の成功で気を良くしたキャピトル・レコードは4ヵ月後に『サーファー・ガール』を、更に1ヶ月後に『リトル・デュース・クーペ』をアルバムとしてリリースさせる事に。。 この頃からキャピトルの新譜要求にプレッシャーを感じるようになったブライアンであったが、同時にアルバムをより良いものにしたいと思うようになった。
ブライアンの父、マネージャーのマリー・ウィルソンのゴリ押しで、それまでのプロデューサーであったニック・ヴェネットを追い出し、ついにブライアンがプロデュースする事になる。 新人ミュージシャンにプロデュースさせるなど“前例のない”事であったが、「サーフィン・U.S.A.」の大ヒットでブライアンに対するキャピトルの信頼が高まっていたのかも知れない。
「"ウェスタン"で録音した方がいいアルバムが作れる」というブライアンの主張に対し、キャピトルは外部スタジオの使用に難色を示した。 しかし、"ウェスタン"で録音した試作曲「サーファー・ガール」「リトル・デュース・クーペ」を聴いた役員が、キャピトルの本社に自社用スタジオがあるにも関わらずウェスタン・スタジオでのレコーディングにGOサインを出したという。
以後、ウェスタン・スタジオはブライアンのホーム・スタジオとなった。 そして、ウェスタンの敏腕サウンド・エンジニアのチャック・ブリッツとの仕事が再開する。
“プロデューサー”ブライアン・ウィルソン、22歳の晩夏であった。
リトル・デュース・クーペ
Little Deuce Coupe
1963年はアルバム『サーフィン・U.S.A.』が全米2位の大ヒットを記録、『サーファー・ガール』は全米7位、続く『リトル・デュース・クーペ』は全米4位まで上昇。ビーチ・ボーイズの人気が本物であることが証明されつつあった。
当時若者たちに人気のあった地元のコーヒー・ハウス“パンドラス・ボックス”では連日ビーチ・ボーイズのライブを見るために長蛇の列が出来ていたという。 ブライアンはそのクラブでダイアンとマリリンのローヴェル姉妹、姉妹の従姉妹であるジンジャー・ブレイクと出会う。 その後3人はブライアンのプロデュースによりハニーズとしてレコード・デビューする事になるのだ。
一方、グループの人気を更に上げるためにマネージャーのマリーは「私はブライアンのパパを知っています」とプリントされた丸いバッジを大量に作り、ビーチ・ボーイズを売り込む作戦に出た。
年末にはクリスマス用のシングル「リトル・セイント・ニック」がクリスマス・チャート3位の大ヒット。 この年はビーチ・ボーイズ怒涛の1年であった。
シャット・ダウン ヴォリューム2
Shut Down Volume 2
1964年、キャピトルはビーチ・ボーイズの新作を発売する。しかし、新アルバムのチャートはそれほど振るわず、最高でも13位をキープするのがやっとであった。ビーチ・ボーイズ苦戦の原因、それは…
そう、ビートルズのアメリカ上陸である。 この年の初頭、「抱きしめたい」の大ヒットを皮切りに次々とチャートを独占。 いわゆる「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の現象がアメリカに留まらず世界中を席巻し、それまでの音楽勢力図をガラリと一変させてしまうのだ。 マネージャーのマリー・ウィルソンの広告戦略「私はブライアンのパパを知っています」バッジもすっかり色褪せたものになった。
ビートルズのアメリカの配給会社がビーチ・ボーイズと同じキャピトル・レコードであった事、弟のカールがビートルズに夢中になった事(マリーは部屋にビートルズのポスターを貼っていたカールを裏切り者と呼んだ)など、ブライアンはビートルズに脅威を感じ始めていた。 テレビのエド・サリバン・ショーでビートルズと熱狂する観衆を見て衝撃を受けたブライアンは、既に出来上がっていたアルバム『シャット・ダウン・ヴォリューム2』を1から作り直すと言い出し、何とかマイクに説得されて思い留まったという。
自信を失いかけたブライアンであったが、やがでビートルズへの対抗意識が彼を更に成長させることになる。 ここがグループのターニング・ポイントであった。
オール・サマー・ロング
All Summer Long
当時マネージャーであったマリー・ウィルソンは、ずいぶん前からグループにとって厄介な存在になっていた。
グループ初の海外ツアーである64年1月のオーストラリア公演における暴君ぶり(メンバーの行動を始終監視しルールを破ると罰金千ドルを徴収した)、レコーディングや曲づくりへの過剰な介入など、ブライアンをはじめメンバー全員の我慢の限界は超えていた。 特に作品に対する批判は幾度となく繰り返され、レコード会社の新譜要求プレッシャー以上にブライアンを苦しめていた。
4月に行われた「アイ・ゲット・アラウンド」のレコーディング中、延々と作品への酷評を止めないマリーに対し、遂にブライアンの抑えていた怒りが爆発。 「父さんはクビだ!」衝動的にマリーにマネージャー解雇を言い渡す。 さすがのマリーもこの件は堪えたようで、数週間病床に伏したそうだ。
しかしマリーもしぶとかった。 解雇のショックから立ち直った後、報復のためビーチ・ボーイズよりビッグで優秀なグループを作り出そうとする。 自分こそがボーイズを作ったと誇示するために。 「あの恩知らずの餓鬼どもが」と言っていたマリーは、カールが通っていた職業学校の友人であるリック・ヘンを中心としたアマチュア・バンドを“サンレイズ”というビーチ・ボーイズそっくりのコピー・バンドに仕立て上げ、ブライアンにプレッシャーをかけ始めた。
このマリーの嫉妬の混じった行動は、ブライアンにとって
ブライアンは曲作りに没頭。5月にはシングル「アイ・ゲット・アラウンド」が初の全米1位を獲得。 ブライアンとビーチ・ボーイズの快進撃が始まった。
ビーチ・ボーイズ・クリスマス・アルバム
Beach Boys Christmas Album
1964年のクリスマス・シーズン、キャピトルはビーチ・ボーイズの新譜にクリスマス・アルバムのリリースを求め、ブライアンもクリスマス・ソングのレコーディングを開始する。
ブライアンがクリスマス・アルバム制作を決めた大きな要因は、前年にフィル・スペクターが発表した有名なクリスマス・アルバム『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー』の存在が大きかったと思われる。 スペクターの“ウォール・オブ・サウンド”を駆使した重厚なサウンド・プロダクションを持つ『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー』は、従来のクリスマス・ソング集から脱却した革新的なものであった。 63年秋に行われたスペクター主催のレコーディング・セッションは、ロネッツ、クリスタルズ、ダーレン・ラヴなどのスペクター・チルドレンが一斉に会したゴージャスな顔ぶれの中、緊迫した雰囲気で行われたそうだ。
ブライアンはこの歴史的セッションにスペクターから直接招待されており、スタジオを全て仕切ったスペクターのプロデュース方法を目の当たりにし圧倒されたという。 スペクターもまたブライアン同様、完璧主義者であったのだ。
分厚いオーケストレーションを使用するスペクター・サウンドに直接影響を受けたブライアンのプロデュース方法の変遷は、その後発表される作品を考えると実に興味深い。
ビーチ・ボーイズ・コンサート
Beach Boys Concert
1964年7月13日に発表したアルバム『オール・サマー・ロング』は大ヒット、8月17日にはシングル「ホエン・アイ・グロウ・アップ」(邦題「パンチで行こう」)をリリースし全米9位をマーク、10月に初のライブ・アルバム『ビーチ・ボーイズ・コンサート』発表直後にはシングル「ダンス・ダンス・ダンス」がヒット・チャートを上昇中(最高8位)、と旋風を巻き起こしていた。
さて、この当時ブライアンは1つの転換期を向えることになる。
ガール・フレンドだったマリリン・ローヴェルと12月7日にラスベガスで挙式を挙げ、ビヴァリー・ヒルズのローレル・ウェイに新居を構える。 又、新しい親友ローレン・シュワルツと知り合うのもこの時期だった。 ローレンは音楽業界のエージェントをめざす若者で、そのハリウッド的で最先端のライフ・スタイルは、おくてのブライアンにとって実に魅力的な存在に映ったのであろう。 ローレンの薦めでブライアンが初めてマリファナを経験するのは知り合ってすぐの事だった。
その後ローレンを通じロサンジェルスの進歩的な人々と知り合うことになる。 その中にはデイヴィッド・クロスビー、バーズのジム・マッギンとクリス・ヒルマン、スタジオ・ミュージシャンのヴァン・ダイク・パークス、広告代理店に勤めているトニー・アッシャーなどがいた。
ビーチ・ボーイズの人気と比例してブライアンに圧し掛かる負担も次第に増加していく。 新曲の制作、レコーディング・プロデュース、テレビ、ラジオ出演にコンサート出演のための公演ツアーなど多忙を極めたブライアン。 元来、内気で人前に出る事が苦手なブライアンにとって、ステージでの演奏は苦痛なものであった。
圧迫された彼の精神はやがて限界を迎えようとしていた。
ビーチ・ボーイズ・トゥデイ!
Beach Boys Today!
レコード会社からの執拗な新譜要求、ビートルズやフィル・スペクターに抱く憧れや対抗意識、父マリー・ウィルソンとの確執、ブライアンはそれらを一人で抱え込んでいた。 始まったばかりのマリリンとの新婚生活もトラブル続きで彼には辛いものになっていた。 追い討ちをかけるように、マリーはビーチ・ボーイズの全作品の版権を管理する会社、“シー・オブ・チューンズ”の作詞・作曲以外の取得権利を息子から奪い取ってしまう。
64年12月23日、シングル「ダンス・ダンス・ダンス」をプロモートするための西部をまわるツアーに向う飛行機の中、ブライアンは突如泣き叫び精神錯乱状態となった。 様々なプレッシャーから遂に限界が訪れたのだ。 以前から公演旅行が曲作りの障害と感じていたブライアンは、翌年の2月、ステージに立たない事をメンバーに宣言する(マリーは息子を「負け犬」と罵り、最後まで許さなかったらしいが)。
煩わしいコンサートという呪縛から解放されたブライアンは更に自らの創造力の可能性を追求し、刺激的な創作の世界に身を投じる事になるのだ。 しかし彼の成長・変化は、皮肉にもマイク・ラヴをはじめとした他のメンバーとの関係に微妙な緊張をもたらす事を同時に意味していた。
ブライアン渾身の最新作『ビーチ・ボーイズ・トゥデイ!』であるが、マイクはB面の内省的なバラード群を気に入っていなかった。 ブライアン自身、このグループが本質的に抱えている"矛盾"を初めて思い知らされた瞬間であった。
サマー・デイズ
Summer Days (and Summer Nights!!)
ブライアンは創作活動のピークを迎えていた。多くの楽器を重ね、サウンドはより厚みを増していく。 これら音楽スタイルの変貌は、当時常用していたマリファナの影響が考えられるが、彼のライフ・スタイルに多大な影響を与えた友人、ローレン・シュワルツに勧められたLSDも大きく関係しているようだ(LSDはサンフランシスコの化学者スタンリー・オーズリー博士が作ったものだった)。
初めてのLSD服用はブライアンにとって恐ろしいだけの幻覚体験であったが(彼はLSDトリップ後、妻マリリンに"神を見たんだ"と怯えながら泣いていたという)、その強烈なイメージは彼の音楽にそれまでにない色彩感をもたらす結果となった。 グループの転機も訪れた。
ブライアンがコンサート活動から身を引いたため、65年2月からのステージではセッション・ギタリストのグレン・キャンベルが3ヶ月間だけ代役を務める事になる。 その後、ドリス・デイの息子テリー・メルチャーとのデュオ「ブルース・アンド・テリー」として活動していたブルース・ジョンストンが4月9日のツアーから正式メンバーとして加入、以後6人目のビーチ・ボーイズとしてずっと活躍する事になるのだった。
この年の4月に発売された「ヘルプ・ミー・ロンダ」が全米ナンバー・ワンの大ヒット、続く「カリフォルニア・ガールズ」も全米トップ3のヒットを記録。 最新作『サマー・デイズ』もアルバム部門で全米2位にランクされる。 グループとしてまさに人気と実力がピークに達した絶頂期といえる。
音楽を追及するためにブライアンの視線はまっすぐ前を見つめていた。 彼の研ぎ澄まされた感性は若者のライフ・スタイルやカルチャーの変化を肌で感じとり、やがて訪れるロック業界の変革すら予見していた。 更に上を目指すために。
ビーチ・ボーイズ・パーティ!
Beach Boy's Party!
アルバム『トゥデイ!』『サマー・デイズ』で創作の頂点を極めたブライアンであったが、クリスマス・シーズンが到来し、キャピタル・レコードから更なる新譜要求を受ける。 ビートルズやフィル・スペクターに対抗するためにサウンド追求を目指すブライアンにとって、会社の要求はストレスのかかるプレッシャー以外の何物でもなかった。 そこでブライアンは(本意ではなかったが)コストも時間も掛からない、スタジオでのライヴ風レコーディングを行うというアイディアを思いつく。
クリスマス向けアルバム『ビーチ・ボーイズ・パーティ!』は全米チャート6位まで上昇し、急ごしらえで作られたものとしては十分な結果を残すことになった。 しかし、アルバムと同時にリリースされたシングル曲「リトル・ガール・アイ・ワンス・ニュー」は「カリフォルニア・ガールズ」と同じくらい創意に満ちた素晴らしい作品であったが、殆どラジオにかけられることなく、チャートの20位を確保するのがやっとだった。 それとは対照的にアルバム『ビーチ・ボーイズ・パーティ!』からシングル・カットされた即興風の「バーバラ・アン」は全米2位まで上がる大ヒットを記録した。この皮肉ともいえる現象は、ブライアンが『トゥデイ!』や『サマー・デイズ』でも感じた、作品の出来と売上げは必ずしも一致しない点を再認識したであろう事は想像に難くない。
さて、この年の暮れ、ブライアンにとって大きな転機が訪れる。 『ビーチ・ボーイズ・パーティ!』が発売された1ヶ月後の12月6日にビートルズの新しいアルバムがアメリカで発売されるのだ。
このアメリカ編集版『ラバー・ソウル』を聴いたブライアンは、アルバム全体が素晴らしい楽曲で構成されている事に衝撃を受けたという(このアメリカ版『ラバー・ソウル』はキャピトルが意図的に楽曲を入れ替え、フォーク・ロック集の趣のある作品にしたものであった)。
『ラバー・ソウル』に刺激されたブライアンは「史上最高のロック・アルバムを作るよ!」と妻マリリンに誓ったという。
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