ビーチ・ボーイズってどんなバンド?
あらまし50年
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夏、海、太陽…。サマー・ミュージックといえばビーチ・ボーイズ。そのイメージは間違っていないけど、彼らの音楽はそれだけじゃない。 半世紀も活動していれば、紆余曲折あるのは当たり前。
とりあえず、ビーチ・ボーイズのデビューから現在までを駆け足で振り返ってみよう。また、メンバーや関係者たちについても簡単に触れてみた。
グループの大まかな歴史
アメリカのカリフォルニア州、ロサンジェルス中央部から15キロほど南東に位置する、1940年以降に発達した新興住宅街「ホーソーン」。 イングルウッドやロサンゼルス国際空港に面し、西南3キロ先にはマンハッタン・ビーチ、10キロ北にはハリウッド、ビバリー・ヒルズが位置するこの地で、ブライアン、デニス、カールのウィルソン3兄弟は少年時代を過ごす。
61年初頭、3人の兄弟と従兄弟のマイク・ラヴが、ホーソーン・ハイスクールのショーで「カール&パッションズ」というグループ名で演奏した。その数ヵ月後、ブライアンの同級生のアル・ジャーディンを加えた5人組「ペンデルトーンズ」というグループ名で活動を始める。 「ペンデルトーン」とは当時流行していたワイドなストライプのシャツの商品名であった。
ある日、ブライアンたちはハイト、ドリンダのモーガン夫妻が経営する音楽出版社「ギルド・ミュージック」でオーディションを受る。そこで彼らのオリジナル曲「サーフィン」を演奏する。
ブライアンの父の知り合いだったハイト・モーガンに気に入られ、ペンデルトーンズは見事合格、そして61年12月8日にキャンデックス・レコードの子会社Xレコードからデビュー・シングル「サーフィン」が発売される。「サーフィン」は全米75位というまずまずの成績を残し、ラジオから流れてくる自分たちの曲を聴いた少年たちは有頂天となった。
しかし、発売されたレコードを見てメンバーらが困惑したのは、グループ名が「ペンデルトーンズ」ではなく、「ザ・ビーチ・ボーイズ」という表記だった事だ。ブライアンたちは抗議したが、レコード会社からは変更出来ないと言われ、渋々諦めたという。
デビュー間もなく「サーフィン」の印税の少なさにアルがバンドの将来に不安を感じグループを脱退、近所に住んでいたデヴィッド・マークスが加入する。デヴィッドは約1年間、アルが復帰する迄の間だけ在籍することになるのだった。
さて、少年たちのレコードデビューを受け、元々音楽好きだったブライアンの父、マリー・ウィルソンがマネージャーを買って出る。 マリーは経営不振のキャンデックスに見切りをつけ、大手のレコード会社であったキャピトル・レーベルとの契約に成功する。 キャピトルに売り込んだ「サーフィン・サファリ」「サーファー・ムーン」「409」などは、モーガン夫妻の「ギルド・ミュージック」が権利を保有していた為、マリーと夫妻は疎遠となった。
62年6月4日、キャピトルからのデビュー曲「サーフィン・サファリ」が全米14位のスマッシュ・ヒットを記録すると、早速グループ初のアルバム『サーフィン・サファリ』をリリース、当時の若者文化“サーフィン・ブーム”にも乗って全米32位の好成績を残した。
キャピトルはビーチ・ボーイズに次々新譜を要求するが、殆どの楽曲はグループのリーダー的存在であるブライアンによって書かれたものである。 絶品のハーモニーとキャッチーなメロディは、海や車といった若者のカルチャーを題材にした歌詞と共に受け入れられ、63年3月の「サーフィン・U.S.A.」の大ヒットで人気は不動のものとなる。
左からカール、デニス、マイク、アル、ブライアン。
コンサートにおけるグループの人気も好調で、64年10月には初のヨーロッパ・ツアーが行われ大成功を収める。同年7月に発表した「アイ・ゲット・アラウンド」はビーチ・ボーイズ初の全米ナンバー・ワン・シングルとなった。
年3枚のアルバム・リリースをノルマに課されたブライアンは、多忙を理由に64年暮れのアメリカ西部公演を最後にライブ活動から退き、作曲・プロデュースに専念する事を決める。ステージでのブライアンの代役としてセッション・ギタリストのグレン・キャンベルが一時的に参加するが、65年4月からブルース・ジョンストンが6人目の正式メンバーとして加入するのである。
煩わしいツアーから解放されたブライアンは、ビートルズの『ラバー・ソウル』に対抗するために66年5月、傑作アルバム『ペット・サウンズ』を発表する。アルバムは一部の音楽関係者から大絶賛されたものの、キャピトルはこれまでの作品とあまりに懸け離れた作風に不安を感じ、『ペット・サウンズ』の宣伝に力を入れず、8週間後に編集アルバム『ザ・ベスト・オブ・ザ・ビーチ・ボーイズ』を発表してしまう。 この事はブライアンをひどく傷つける事になった。
67年10月に発表したシングル「グッド・ヴァイブレーション」が世界的にヒットすると、ついにイギリスではビートルズに替わり、人気ナンバー・ワンのグループになる。
全世界が注目する次のアルバム『スマイル』はレコード会社の大々的な宣伝もあり期待感が高まる。しかし、発売予定の12月を過ぎてもリリースされることは無く、翌年の5月にキャピトルからアルバム発売中止が告げられる。薬物乱用によるブライアンの精神状態の悪化やレコード会社との確執、ビートルズの新作に打ちのめされた等、様々な憶測が噂された。従来のグループのイメージから脱却した革新的なアプローチが『スマイル』の構想であったが、最後までメンバーの理解を得られなかった事、それがブライアンのプロジェクト中止を決断させた1番の理由だったと言われている。
1年にも及ぶ制作過程で残された膨大なセッション・テープは放置され、皮肉な事にロック史上最も有名な幻のアルバムとファンから支持される事になるのだ。 ブライアンは自分の殻に閉じ篭り、半リタイヤ状態となってしまった。『スマイル』の失敗以降、アメリカにおけるグループの人気は低迷してしまう。逆にヨーロッパでは人気が爆発するのだが…。
ブライアンが退いた代わりに、楽曲面ではデニス、ブルースらが頭角を現し、ステージではカールが奮闘する。 70年になるとキャピトルを離れ、ブラザー・リプリーズ・レーベルに移籍。幾つかの傑作曲を発表するものの、60年代のようなヒットには恵まれない状態が続いた。 70年代半ばにキャピトル時代の初期作品を集めたベスト・アルバム『終わりなき夏』が大ヒットし人気が再燃、このリバイバル・ブームに乗じて“ブライアン・イズ・バック”キャンペーンを実施、短期間であるがブライアンがステージ復帰を果たすことに。
80年代になっても精力的なツアー・バンドとして活動を続け、伝説のアメリカン・バンドとしてコンサートは大盛況となる。 しかし79年頃からプライベートで問題を抱えていたデニスは重度のアルコール中毒症になり、83年12月27日に極寒のマリーナ沖でダイビング中に溺死する。享年39歳だった。
その後、88年のトム・クルーズ主演映画『カクテル』の挿入歌「ココモ」がビーチ・ボーイズ22年ぶりの全米1位の大ヒットとなる。また、同じ年、ブライアンのソロ・アルバム「ブライアン・ウィルソン」が発表され、長年苦しみ続けた精神分裂症から徐々に復調。
「ロックの殿堂入り」も果し、グループとして存続していくが、98年2月6日にバンドを支えていたカールが肺癌のため他界する。マイクとブルースは本家「ザ・ビーチ・ボーイズ」、アルは息子やブライアンの娘たちとで「アラン・ジャーディン・ファミリー&フレンズ」、ブライアンはギタリストのジェフリー・フォスケットやポップ・グループのワンダー・ミンツらのサポートを得てソロとして、それぞれライブを中心に活動するようになる。
そのまま分裂状態であったがデビュー50周年の2012年、初期メンバーであったデヴィッド・マークスを加えグループを再結成、ワールド・ツアーを敢行、6月には新作アルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ~神が創りしラジオ~』を発表する。
その後、再び3派に分裂するも、未だ健在ぶりを見せる、アメリカを代表する現役レガシー・バンドである。
デビュー50周年記念で勢揃いしたメンバー。
左からブルース、アル、ブライアン、マイク、デヴィッド・マークス。
オリジナル・メンバー
ブライアン・ウィルソン
本名:ブライアン・ダグラス・ウィルソン
Brian Douglas Wilson
1942年6月20日生まれ
父マリー、母オードリーのウィルソン家の長男。 両親共に音楽好きであったため、音楽に溢れた家庭で育った。
61年12月のレコードデビュー以来、ビーチ・ボーイズのリーダー的存在。グループの殆どの楽曲はブライアンによって書かれている。 2歳の時に聴いた、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」が最初の音楽体験で、後に自身で最も影響を受けた作品だと語っている。 ステージではベース・ギターやキーボードを担当、素晴らしいフォルセット・ボイスはビーチ・ボーイズ・サウンドの要でもあった。
責任感が強く、相手を思いやる優しい性格であるが、幼少時代から父親の期待に応えようと過度のストレスを抱えていた。
生まれつき右耳が殆ど聴こえない聴覚障害を持っていて、子供のころに父に殴られた事が原因だとブライアン本人は信じ込んでいる。
父親から受け続けた虐待は大きなトラウマとなり、その後の人生に暗い影を落とす事になる。
作曲・プロデュース・ライブ活動とグループを牽引するが、レコード会社の新譜要求やマネージャーであった父親との対立など大きなプレッシャーを感じ、64年暮れのアメリカ西部の公演を最後にステージから退く。以後、作曲・プロデュースに専念し、よりクリエイティブな創作活動の中、多くの名曲を作りあげていく。
64年12月にマリリン・ローヴェル※1と結婚。2人の娘※2を儲ける。
音楽的にも人気面でも絶頂期であった67年、渾身の作品である『スマイル』の制作に行き詰まり、精神的に追い込まれていく。彼の繊細な心は無残にも引き裂かれ、その後20年もアルコールとドラッグに浸った隠遁生活を余儀なくされる。
87年に自身初のソロ・アルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表し、精神状態は徐々に復調。
95年にメリンダ・レッドベターと再婚。
現在も彼を慕うミュージシャンたちと共にツアー活動、ソロ・アルバムの発表など、衰えを知らない活躍ぶりを見せている。
※1 姉ダイアン、妹のバーバラのローヴェル3姉妹の次女。3姉妹は61年にアマチュア・ボーカル・グループ“ローヴェル・シスターズ”として活動。その後、マリリンはダイアンと従姉妹のジンジャー・ブレイクと共に3人組女性ボーカル・グループ“ハニーズ”を結成、ブライアンのプロデュースにより62年にレコード・デビューを果たしている。
※2 68年に長女のカーニー、翌年に次女のウェンディが誕生。2人はママス&パパスのジョン、ミシェルの娘、チャイナ・フィリップスと一緒に3人組の女性コーラス・グループ“ウィルソン・フィリップス”として90年にレコード・デビュー、大成功を収めている。
マイク・ラヴ
本名:マイクル・エドワード・ラヴ
Michael Edward Love
1941年3月15日生まれ
ブライアンの父、マリー・ウィルソンの妹グリーの息子。つまりブライアンの従兄弟。
弟にスタンリーとスティーブ、妹にモーリーンとステファニー、という5人兄弟の長男。
ビーチ・ボーイズのメイン・ボーカリストで、鼻にかかった歌声はグループのトレード・マークになっている。又、ビーチ・ボーイズの特長的なコーラスは、マイクの低音が抜群の効果を上げているのは間違いない。
主に作詞担当として、60年代前半のビーチ・ボーイズ黄金期にブライアンと数多くの曲を共作する。
70年代以降、グループはライブ・バンドとして支持されるようになり、マイクのステージ上のパフォーマンスが評価されるが、明るく社交的な性格がステージ・マンとしての資質になっているのだろう。
勤勉で仕事熱心であるが、一方では頑固で攻撃的な一面も持ち合わせている。
海、夏、車などのグループのイメージに固執するマイクと、音楽的に成長を続けるブライアンとの間の溝が次第に深まって行き、方向性について2人が対立するようになる。特に67年の『スマイル』制作中止の原因となったと言われている確執はファンの間でも物議を醸している。
敬謙なクリスチャンである彼は、60年代終わり頃、ビートルズと共にマハリシ・ヨギのTM(超越瞑想)に傾倒し、現在も熱心な信者として瞑想に励んでいる。
ブルース・ジョンストンと共にオリジナルのビーチ・ボーイズとして、現在でもステージ上で衰えを知らないパフォーマンスを見せている。
デニス・ウィルソン
本名:デニス・カール・ウィルソン
Dennis Carl Wilson
1944年12月4日生まれ
ウィルソン家の次男坊。性格は父マリーに似て、豪快で感情的、そして豊かな感性の持ち主。
内面は繊細で寂しがりやであるが、父親同様、自分の愛情表現が不得意であった。
ビーチ・ボーイズのドラマーとしてデビューから活躍。
メンバー中、唯一サーフィンができ、コンサートでは女性から絶大な人気を誇っていた。
68年頃から曲作りも始め、兄のブライアンに匹敵する音楽的才能を発揮し優れた楽曲を数多く生み出す。
76年にはソロ・アルバム『パシフィック・オーシャン・ブルー』を発表し、その内容の素晴らしさは他のメンバーたちを驚かせた。
私生活では極端な浪費癖があり、一時チャールズ・マンソンとそのファミリーに自宅を好きに使わせていた事もあった。
キャロル・フリードマン、バーバラ・チャレン、カレン・ラム、ショーン・ラヴと4度結婚する。
79年にステージ上でマイクに暴言を吐き、一時的にビーチ・ボーイズから除名される。
その後、ドラッグやアルコール中毒症などで苦しみ、83年12月27日にロサンゼルスのマリーナ・デル・レイ沖でダイビング中に他界する(享年39歳)。
カール・ウィルソン
本名:カール・ディーン・ウィルソン
Carl Dean Wilson
1946年12月21日生まれ
ウィルソン家の末っ子。おとなしく引っ込み思案の性格。
兄ブライアンを偶像視している。
ビーチ・ボーイズのリード・ギタリスト。66年頃からグループのボーカリストとして活躍し、その美しい歌声には定評がある。
まじめさ故にメンバーから信頼され、ブライアンが退いた70年代以降は作曲、プロデュースも手がけるなどグループを引っ張っていくリーダー的存在に。
元々ロックンロール志向が強く、81年に『カール・ウィルソン』、83年に『ヤング・ブラッド』と2枚のソロ・アルバムをリリースしている。
98年2月6日に肺癌のため他界(享年55歳)。バンドの求心力が弱まりグループはバラバラになってしまう。
アル・ジャーディン
本名:アラン・チャールズ・ジャーティン
Alan Charles Jardine
1942年9月3日生まれ
ハイスクール時代のブライアンの親友。
ビーチ・ボーイズのサイド・ギター担当。デビュー直後に歯科医を目指すため一時的にグループを離れたが、63年から復帰する。
性格は几帳面で真面目。
ツアー先では美術館や名所を回る勉強家。
無類のフォーク・ソング好きでも知られる。
カールの死後、マイクとの確執によりグループを脱退。2人の息子マット、アダムに加え、ブライアンの2人の娘カーニーとウェンディらと共に「アラン・ジャーディン・ファミリー&フレンズ」を結成する。
2012年のデビュー50周年の再結成でもわかるように、彼の輝くような歌声は未だに衰えを見せない素晴らしいものがある。
ブルース・ジョンストン
本名:ブルース・アーサー・ジョンストン
Bruce Arthur Johnston
1942年6月27日生まれ
ドリス・デイの息子、テリー・メルチャーとブルース&テリーを結成し、60年代初期に活動。堅実で温厚な性格は周りから信頼され、恐らくメンバーの中で最もバランス感覚が長けている。
コンサートにおけるブライアンの代役として65年の4月からビーチ・ボーイズの正式メンバーとして加入。ベース・ギターとキーボードを担当する。
73年に当時のマネージャーだったジャック・ライリーとの確執でグループを脱退するが、テリーらと独立レーベル「イクイノックス」を設立、多くのミュージシャンをプロデュースする。
音楽的才能も評価されていて、彼が書いたバニー・マニロウの「歌の贈り物」(75年)は全米ナンバー・ワンの大ヒットを記録し、グラミー賞最優秀楽曲賞も受賞している。
79年から再びグループに復帰し、現在もマイク・ラブと「ザ・ビーチ・ボーイズ」としてライブを中心に活動中である。
関係者
ディビッド・マークス
1948年8月22日生まれ
ブライアンの家の隣に住んでいたカールの親友。
ビーチ・ボーイズのレコード・デビュー直後にアルが脱退したため、急遽メンバーに。当時グループ内の最年少14歳であった。
ステージではサイド・ギターを担当。アルがグループに復帰する4作目の『リトル・デュース・クーペ』まで在籍するが、マネージャーのマリーにハメられてグループを脱退する。
ビーチ・ボーイズ結成50周年の2012年、49年振りにビーチ・ボーイズのメンバーとして復活する。
マリー・ウィルソン
ウィルソン兄弟の父親。
バイタリティ溢れる活発な性格の持ち主。
若い頃に働いていたガス供給会社の事故で左目を失うも、がむしゃらに働き工業用品会社を経営するまでになる。
自作の「ツー・ステップ・サイド・ステップ」などの数曲を自費出版でレコード化する程、ソング・ライター志望の強い音楽好きであった。
父親としては昔ながらの頑固親父で、息子達に対して過度の期待を抱き、しつけは相当に厳しかったという。
特に長男のブライアンには口うるさく、今だったら児童虐待の大問題になるほど体罰は行き過ぎていたようだ。
息子たちがキャンデックス・レーベルからレコード・デビューすると、大手キャピトルとの契約を取り付けることに成功する。
ビーチ・ボーイズの初代マネージャーとなるが、グループやレコード会社に対し何かと口出しする事がずっと問題視され、ついに64年4月に息子のブライアンにマネージャーを解雇される。
息子への報復として、ビーチ・ボーイズのコピー・バンド「ザ・サンレイズ」をプロデュースしレコード・デビューさせている。
また、69年には念願だった自身のアルバム『ザ・メニー・ムーズ・オブ・マリー・ウィルソン』を発表、これらの行動はブライアンの才能への嫉妬心からであったが、同時に音楽をこよなく愛する人だった事もわかる。
73年、心臓発作で他界。
ゲイリー・アッシャー
銀行に勤めながら音楽・車に興味を持つ若者で、「サーフィン」がチャート・インする頃、ブライアンと意気投合し共同で多くの曲を作った。
グループのメンバー以外の人間がブライアンの共作者となるのは初めてで、「ロンリー・シー」「409」「イン・マイ・ルーム」など、ビーチ・ボーイズ最初期の傑作の作詞を手がける。
何故かマネージャーのマリーはゲイリーを嫌っていて、ブライアンとの仲を引き裂くために必死であった。
コロンビア・レコードでプロデューサーとして活躍し、80年代なると再びブライアンとのコンビで作品を残している。
モーガン夫妻(ハイト・モーガン、ドリンダ・モーガン)
ブライアンの父、マリー・ウィルソンの知人。音楽出版会社「ギルド・ミュージック」を経営する。
オーディションで演奏されたブライアン達の「サーフィン」を気に入ったハイト・モーガンは、Xレコードと契約を果たし、「サーフィン」は61年12月8日にリリースされた。
62年2月8日にレコーディングされた「サーファー・ガール」、「サーフィン・サファリ」、「ジュディ」「409」は夫妻に権利があったにも関わらず、マリーが無断でキャピトル・レコードと契約。明らかな契約違反であったが、夫妻は提訴せずウィルソン家とは疎遠になった。
ニック・ヴェネット
レターメンのプロデュースでも知られるキャピトル・レコードの若くて有能なプロデューサー。
ビーチ・ボーイズの「サーフィン・サファリ」を気に入り、マリーと契約する。当時ニックはブライアンの1歳年上の21歳だった。
ビーチ・ボーイズの最初の2枚のアルバムをプロデュースする。
チャック・ブリッツ
ウェスタン・スタジオ専属のサウンド・エンジニア。
62年4月の「サーフィン・サファリ」のレコーディングの縁で、その後ビーチ・ボーイズと数々の仕事をする。
60年代前半、ブライアンの音楽的な成長に伴い様々なレコーディングを試みるが、チャックは当時の最新技術で結果を出していく。
ロジャー・クリスチャン
ラジオ局KFWBで活躍していたDJ。
ゲイリー同様、車が大好きで、そのヒップな感覚はブライアンを虜にした。
「シャット・ダウン」や「リトル・デュース・クーペ」「ドント・ウォリー・ベイビー」など多くの作品に詩を提供する。
ブライアンとはゲイリー・アッシャーを通じて知り合ったが、マリーがゲイリーを追い出すためにブライアンに引き合わせたというもっぱらの噂である。
トニー・アッシャー
広告代理店のコピーライターであったが、ビートルズの『ラバー・ソウル』に触発されたブライアンに抜擢され、66年の名作『ペット・サウンズ』の作詞を担当。
シンプルだが純真さが際立った歌詞は今でも絶賛されている。
「音楽家としては天才的、人間としては素人」というトニーの発言はブライアンをうまく言い表したものである。
2人は97年に再び楽曲を共作している。
ヴァン・ダイク・パークス
当時無名のミュージシャンであったが、創造の渦中にあったブライアンの新パートナーとしてアルバム『スマイル』を共作する。
そのあまりにも難解で不明瞭な歌詞はメンバーに理解されず、特にマイク・ラヴから猛烈な反感を買う。ブライアンと孤軍奮闘するも、結局スマイル・プロジェクトを去ってしまう。
『スマイル』失敗の後もブライアンの良き理解者として親交が続いている。
90年代以降になると再び共同でアルバム制作を行うようになり、04年にはブライアンに協力し『スマイル』完成の一役を買った。
ローレン・シュワルツ
ブライアンの親友。 音楽業界のエージェントをめざす若者で、奥手のブライアンに様々な若者カルチャーを教えた。 特にドラッグはブライアンのその後の音楽と生活に大きな影響を及ぼす事になる。 また、ブライアンはローレンを通じてトニー・アッシャーやヴァン・ダイク・パークスらと知り合う事になる。
ディヴィッド・アンダール
後に「スリー・ドック・ナイト」として一世を風靡するダニー・ハットンの元マネージャー。
ブライアンとはダニーを通じて知り合い、親友関係を築く。
若くて聡明なビジネスマンタイプで、ビーチ・ボーイズが立ち上げたレコード会社、ブラザー・レーベルの社長に抜擢される。
ブライアンの良き理解者だったが、スマイル・プロジェクト崩壊と共にグループとの関係は疎遠になる。
現在までブライアンとは個人的な親交が続いている。
ニック・グリロ
67年頃からのビーチ・ボーイズのマネージャー。 ディヴィッド・アンダールと共にグループの経営を支え、堅実な手腕を発揮。 ブライアンの貴重な楽曲を管理するために尽力するが、マリー・ウィルソンの愚挙により悪条件で版権を売却されてしまう。
ジャック・ライリー
72年頃からビーチ・ボーイズのマネージャーを務めたジャーナリスト。 グループの新しいイメージ作りに奮起し、オランダ移住計画など試行錯誤するがいずれも失敗。 経歴詐称や同性愛者などの疑惑があった彼は、73年にマネージャーを解雇される。
ユージン・ランディ
数々の麻薬中毒のロック・スターを救ってきた臨床心理医。76年に精神的に苦しんでいたブライアンを一時的に回復させた。
82年から再開した治療により、ブライアンの心身を完全復活させる事に成功するが、マインド・コントロールにより彼の才能を利用してしまう。
92年の裁判所の裁定によりブライアンに近づく事を禁止される。