ビートルズ vs ビーチ・ボーイズ



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数年前、ビーチ・ボーイズのHPを開設していた時、一番多い検索キーワードが「ビートルズ対ビーチボーイズ」だった。 ビーチ・ボーイズに対する世間の興味は、“ビートルズのライバル”はどんなグループなのか?という事のようだ。 そこで60年代におけるビートルズとビーチ・ボーイズを比較してみた。

デビューまで

まず、ビートルズ。 メンバーはもう皆さんご存知の通り、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人組。 全員イギリスの港町リヴァプール出身。 もともと1957年3月にジョンがアマチュア・バンド「クォリーメン」を結成。 4ヶ月後にポールが加入、その後にジョンの親友スチュワート・サトクリフとポールの親友ジョージが加わり60年に「シルヴァー・ビートルズ」と改名。 ドイツのハンブルグや地元のクラブでライヴ活動を行っていた。

デビュー直前のビートルズ。左はドラマーのピート・ベスト

ビートルズデビュー前

61年12月、バンドの噂を聞いたレコード店責任者ブライアン・エプスタインは、地元のキャバーン・クラブでビートルズの生演奏を聴く。 そこでビートルズの魅力に惹かれたエプスタインは自らバンドのマネージャーとなりレコード会社への売り込みを開始し、翌年の8月にパーロフォン・レーベルとの契約に成功する。 契約の際、当時のドラマーだったピート・ベストの演奏力を不安視したプロデューサーの意向により地元の敏腕ドラマーのリンゴが加入。 飲み屋での過酷なライブ演奏で鍛えられていた4人のビートルは、既にプロ級のバンドだった。

62年10月5日「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコードデビューを果たしたビートルズ。 お揃いのスーツを着たモップヘアーの小綺麗な4人組、というビジュアルはマネージャーのエプスタインの戦略であった。 エプスタインはその後も商売人として天才的な手腕を発揮する事になる。

一方、ビーチ・ボーイズはアメリカのカリフォルニア州ホーソーン出身の5人組バンド。 ホーソーンはロサンジェルス中央部から15キロほど南東に位置する新興住宅街だ。

メンバーはブライアン・ウィルソン、デニス・ウィルソン、カール・ウィルソンの3人の兄弟と従兄弟のマイク・ラヴ、ブライアンの学校の同級生アル・ジャーディン。 5人は1961年初頭に「ペンデルトーンズ」という名前のバンドを結成。 「サーフィンを歌にしよう」というのは、メンバー中唯一サーフィンをやっていたデニスのアイディアだった。

デビュー直後のビーチ・ボーイズ。左からブライアン、マイク、デニス、カール、デヴィット

デビュー直後のビーチ・ボーイズ

ブライアンとマイクがサーフィンを題材にした「サーフィン」を作曲。 地元の音楽出版社でオーディションを受け、同年暮れにローカル・レーベルのXレコードからレコード・デビューを果たすが、グループ名は本人たちに無許可で「ザ・ビーチ・ボーイズ」と改名されていた。 学業を優先したアルの代わりにカールの友達デヴィッド・マークスが加入する。 (自宅のガレージでカールとデヴィッドがギターで遊んでいたのを見てブライアンがオーデションを受けてみようと思いついたのだった)

本格的なメジャーデビューは62年6月4日キャピタルレコードから発表された「サーフィン・サファリ」。 バンド経験が1年たらずでデビューを果たしたビーチ・ボーイズ、実力はアマチュアの域を出ていなかった。 マネージャーはブライアンの父、マリー・ウィルソン。 全員素人、手探りの船出であった。

因みにビートルズのアメリカでの配給レコード会社も大手キャピタルレコード。両者とも頭文字は"B"始まり。最初から比較される運命だったのか。。


バンド編成

ステージでのビートルズ

ビートルズの楽器編成はリードギター=ジョージ、リズムギター=ジョン、ベースギター=ポール、ドラムス=リンゴ。 4人の中ではリンゴのテクニックがずば抜けていた。 ピアノなどのキーボードはプロデューサーのジョージ・マーティンが担当したが、ステージではリズムギター担当のジョンがオルガンを弾く事もあった。 そんな初期ビートルズのサウンドの花形はジョンが吹く存在感あるハーモニカであろう。

バンドの特徴としては4人のメンバー全員が演奏しながらリード・ボーカルを歌える、というのが売り。60年代初頭、確かにそれまでの音楽グループには珍しいスタイルといえる。
5枚目のアルバムからエレキピアノを取り入れ、次第に多彩な楽器編成になっていく。

ビートルズは66年8月のアメリカ公演を最後にステージ活動を終了、レコーディングに専念するようになると様々な楽器やレコーディングテクニックを使い始め、よりアーティスティックなバンドへと変貌していく事になる。

ビーチ・ボーイズの楽器編成はリードギター=カール、リズムギター=アル、ベースギター=ブライアン、ドラムス=デニス。 マイク・ラヴはボーカリストだったのでステージではタンバリン、たまにサックスを吹く事もあった。 メンバー全員でコーラスやハーモニーを歌い、マイク以外もリード・ボーカルを歌うスタイルであった。
そして早くからストリングスや管楽器のオーケストラを取り入れたりしているが、それはブライアンが敬愛するプロデューサーのフィル・スペクターの影響を受けた結果である。

ブルース(2列目右)が加入し、6人組になったビーチ・ボーイズ

ビーチボーイズ

バンドの中心人物のブライアンがステージから退いた65年からは地元で音楽活動を行っていたブルース・ジョンストンが加入、ベースギターやキーボードを担当する。 そして次第にアーティスティックに変貌していくのだが、夏や海といったグループのイメージが余りにも強烈に付きまとっていた。 60年代終わり頃からライブ・バンドとして活路を見出していく事になる。

さて、ビーチ・ボーイズの方がコーラスやハーモニーなどのボーカルにより重点を置いていたような印象があるが、ビートルズのボーカル・ハーモニーも負けていないと思う。 初期レコーディングではダブルトラック・ボーカルを多用するなど共通点が多く、両者ともにボーカルは天下一品のバンドといえる。

アレンジについてはビートルズはロック・バンドのスタイルを解散まで貫いていた。 一方のビーチ・ボーイズはコーラス・グループとしてのカラーが強く、外部ミュージシャンを積極的に起用している。ロックバンドとしての拘りはあまり無かったのだろう。

因みに両グループ共に初期作品(ビートルズはデビューアルバム、ビーチ・ボーイズはセカンドアルバム)でチェレスタというあまりポップスでは使われない鍵盤楽器を使った曲が収録されているのは不思議な偶然である。


音楽ルーツ

ビートルズの音楽ルーツは黒人音楽のリズム&ブルースである。 更に白人音楽を融合したロックンロールがその当時最新の音楽スタイルだった。 エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、バディ・ホリーなどアメリカのミュージシャンが彼らのアイドルだったようだ。

ビートルズ

ジョンはラリー・ウィリアムズのようなハードなロックンロールに傾倒したが、同時にアーサー・アレキサンダーやスモーキー・ロビンソンなど情熱的でメロウな作風も好んでいた。 ポールもリトル・リチャードを敬愛するバリバリのR&Rファンだが、アマチュア・ミュージシャンだった父の影響から音楽的嗜好はクラシックやジャズと幅が広い。 ジョージもリズム&ブルースとロックンロールを好んだがギタープレイはチェット・アトキンスの影響が大きい。 リンゴはカントリー&ウェスタンの大ファンで多くのC&W曲をカバーしている。

ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」が最初の音楽体験だったと自ら語るビーチ・ボーイズのブライアンも、やはりリズム&ブルースを聴いていた。 学生時代は従兄弟のマイク・ラヴとロックンロールをラジオで聴いていたそうだが、ブライアンはジャズ・コーラス・グループのフォー・フレッシュメンにも触発されたという。 これは後のビーチ・ボーイズの音楽スタイルを考えると非常に重要なポイントだ。

カールはロックンロール志向が1番強く、ビートルズがアメリカデビューするとビートルズの熱烈ファンになった事は有名。 アル・ジャーディンは大のフォーク・ファンである。 デニスは…ティーンエイジャーだった彼は音楽よりもサーフィンや女の子に夢中だった。

リズム&ブルースとロックンロール志向が強かったビートルズとビーチ・ボーイズ、両者ともアメリカ黒人女性グループを敬愛していたのは偶然であろうか?


ファッション、スタイル

デビュー当時、ビートルズはヴィジュアル的にも注目された。 マッシュルームカットと呼ばれた愛くるしい髪型、お揃いの襟なしジャケット、そしていかした音楽、その全てが全世界の若者を虜にしたという。 「ベートーベンが好きか?」という記者の問いに「好きだよ。特に彼の詩がね」と巧みに返すリンゴ、ウィットに富んだ言動も彼らの大きな魅力であった。

解散間際のビートルズの面々。音楽同様、風貌も大きく変わった

後期ビートルズ

敏腕マネージャーのブライアン・エプスタインの狙い通りスーパーアイドルになったビートルズだったが、時代とともに変貌を遂げる事になる。
60年代中期以降、サイケデリック、ドラックカルチャー、ヒッピームーブメント、反戦デモなど時代の変化にビートルズも敏感に反応する。 アーティストとして成長を続ける一方、ジョンの「キリストより有名」発言やポールの「LSD服用」発言など物議を醸す事もあった。
激化するベトナム戦争、若者のライフスタイルも大きく変化していく中、ビートルズも髪や髭を伸ばし、4人の個性の違いがより明確になっていく。

60年代前半、ビーチ・ボーイズも若者文化を象徴する存在だった。 お揃いのストライプ・シャツ、アイビー・カットの髪型は正に時代そのものと言える。

ビーチ・ボーイズのリーダは2人存在する。1人はステージ上のパフォーマーとして活躍するマイク、もう1人はサウンドクリエーターとしての才覚を発揮するブライアンである。 マイクはアメリカン・グラフィティさながらの青春賛歌を全面に出し、ブライアンは音作りに没頭する“職人”としてその理想を追求した。
実はこの異なる2面性がビーチ・ボーイズの本質である。 60年代中期以降の混沌とした世の中の変革期に鋭く反応したブライアンであったが、マイクは変化を拒んだためビーチ・ボーイズは時代の変化に乗り遅れてしまうのであった。


楽曲比較

最も重要な事であるが、ビートルズもビーチ・ボーイズもデビューした時から楽曲を自作していた。今では当たり前のようになっているが、自ら作詞・作曲して演奏するバンドは当時非常に珍しかったのだ。
それではソングライターとしての両者を比較してみよう。

ビートルズ・ミュージックの魅力は激しいビートと美しいメロディだ。この特徴はデビューから解散まで一貫したもの。 歌詞は男女の愛をテーマにしたものが殆どだが、60年代の中頃から哲学的なものや社会風刺的なものも手がけている。

作詞・作曲はジョンとポールが担当。共作もあるが、お互い競うようにそれぞれ曲を作っていた。 デビュー前からどっちが作ってもクレジットは“レノン/マッカートニーにしよう”、と2人で決めていたので、ビートルズとして発表した2人の楽曲はすべて"J.Lennon - P.McCartney"である。20世紀最高のソングライターコンビの誕生である。
ジョージも2人ほど数は多くないが徐々に成長、中期から後期には"Lennon - McCartney"にはない繊細さを持った名曲を提供している。

個別に見てみよう。

まずはジョンとポールの共作曲。 「フロム・ミー・トゥ・ユー」、「シー・ラヴズ・ユー」、「抱きしめたい」は言わずも知れたビートルズ初期の代表作。 楽曲の素晴らしさもさることながら、ボーカル・グループとしての実力をこれらの作品は証明している。

ジョン

次にデビューからビートルズのリーダー的存在として多くの優れた楽曲を提供しているジョン単独作品について。
彼はずば抜けたバランス感覚を持った才能豊かな芸術家である。 デビューアルバムのタイトル・チューン「プリーズ・プリーズ・ミー」、「ハード・デイズ・ナイト」、「アイ・フィール・ファイン」など、テンポのいい初期ビートルズ・ミュージックを提供している。 同時に、「ナット・ア・セカンド・タイム」、「アイル・ビー・バック」などのほろ苦いバラードも絶品であった。

アメリカのフォーク・ロックの先駆者ボブ・ディランの影響を受け、65年頃から「ヘルプ!」や「ひとりぼっちのあいつ」などの内省的な歌詞を書くようになる。 中期になるとサイケデリック・シーンに刺激され、「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」といった傑作曲を提供する。
また、アメリカの西海岸で発生したフラワー・ムーブメントに呼応したような「愛こそはすべて」、美しく普遍的な歌詞の「アクロス・ザ・ユニバース」、センセーショナルな「カム・トゥゲザー」と、グループ解散まで非凡な才覚を如何なく発揮している。

彼が書く辛辣な社会風刺や心像描写など、作詩家としての才能はメンバー随一。優等生に見られがちなビートルズにある“毒”はジョンによるところが大きいのだ。

ポール

ジョンを兄のように慕うポールもやはり天才的ミュージシャンである。 作風はジョンと比べるとより明るくポジティブなのが特徴。 デビュー当初はジョンの2番手であったが、初期から「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」、「オール・マイ・ラヴィング」、「キャント・バイ・ミー・ラヴ」といった洗練された秀作を提供。 次第にその怪物的な才能を発揮していく事になる。

65年にはグループの転機となった傑作「イエスタデイ」を提供、その後も「ミッシェル」や「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」などの非常に美しい作品を手がけ、“ラブソングのポール”と言われるようになる。

その後もバロック調の名曲「エリナー・リグビー」、優雅なアイリッシュ・ダンス曲「ハロー・グッドバイ」、ファッツ・ドミノ風ロック「レディ・マドンナ」、ドラマチックな感動曲「ヘイ・ジュード」、力強いオールドロックの「ゲット・バック」、ゴスペル調バラード「レット・イット・ビー」といった中期から解散まで多くの魅力的な作品を手掛けている。
ロックンロールやフォークソング、カントリー、ボードビル調、クラシカル・ポップなどその幅広い音楽性はビートルズのファン層を広げる原動力になっている。

ジョージ

ジョンとポールの影に隠れがちのジョージであるが、65年暮れの「恋をするなら」でその実力の片鱗を見せる。 66年には力強いロックナンバー「タックスマン」を制作、そのほかにも「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」、「ジ・インナー・ライト」、「オールド・ブラウン・シュー」など地味だが魅力溢れる作品を書き始める。

また、シタールやタンプーラなどのインド楽器を持ち込んだジョージはインド音楽に傾倒、ラヴィ・シャンカルに弟子入りするなどラーガ・ロックという新たなジャンルを確立させるきっかけも作っている。

その後、ギター・ソロが話題になった「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、不朽の名作「サムシング」、「ヒア・カムズ・ザ・サン」など、後期にはレノン・マッカートニーに匹敵するソングライターに成長する。

リンゴ

名ドラマーのリンゴはビートルズ時代に共作を含め3曲の楽曲を提供、いずれも彼が好んだC&W調の楽しい作品。 特に69年の「オクトパス・ガーデン」は誰からも好かれる人柄がにじみ出た佳曲である。

ではビーチ・ボーイズを見てみよう。

60年代全盛期のビーチ・ボーイズの楽曲は全てブライアン・ウィルソンが手がけている。 ブライアンは作詞が苦手だったので多くの作詞家と共作する機会が多かった。 初期のサーフミュージックやホットロッドの作詞はメンバーのマイク・ラヴ、ブライアンの友人で銀行員のゲイリー・アッシャー、ラジオDJのロジャー・クリスチャンなどが書いている。 メジャーデビュー曲「サーフィン・サファリ」、出世作となった「サーフィン・U.S.A.」(原曲チャック・ベリー作)、「リトル・デュース・クーペ」など、夏、海、車、女の子が中心テーマだった。

ブライアン

ブライアンが作る楽曲は、ストレートなロックンロールのリズムにフォー・フレッシュメンのような芳醇なコーラスとハーモニーをからめる、それまでの音楽にはないキャッチーなサウンドが特徴である。 「ファン・ファン・ファン」、「アイ・ゲット・アラウンド」、「オール・サマー・ロング」など、普遍的な青春賛歌の傑作を次々に作曲していった。

アップテンポで陽気な楽曲を数多く作る一方、美しいコーラスを生かした非常に繊細なバラードも多く手がけている。ブライアン自身はスローな作品を書く方が得意だったようだ。
初期から「サーファー・ガール」、「イン・マイ・ルーム」など、シンプルだが非常に美しい楽曲を書いている。 この路線はコード進行が秀逸な「太陽あびて」、フィル・スペクターの「ビー・マイ・ベイビー」へのアンサーソング「ドント・ウォリー・ベイビー」、繊細さ際立つ「プリーズ・レット・ミー・ワンダー」といったより深く内省的な世界へ進む。 やがてメランコリックな歌詞を書くトニー・アッシャーをパートナーにして「素敵じゃないか」や「神のみぞ知る」、「キャロライン・ノー」などの名曲を発表。 「神のみぞ知る」はポール・マッカートニーに大きな影響を与えたと言われている。

その後、66年暮れに「グッド・ヴァイブレーション」を大ヒットさせると、難解で哲学的な詩を書くヴァン・ダイク・パークスとコンビを組み、アメリカをテーマにあらゆるジャンルの音楽を詰め込んだアルバム『スマイル』の制作に着手した。 『スマイル』のセッションではオペラ調組曲「英雄と悪漢」、難解だが美しい「サーフズ・アップ」などの傑作曲を生み出している。 しかし、ブライアンが作る楽曲は他のメンバーから理解されず、1年近く続けられた『スマイル』プロジェクトは制作中止に。 サーフィン、ホットロッドから脱却し音楽を追及しようとしたブライアンであったが、皮肉にもグループがばらばらになる結果を招いてしまったのだった。

デニス

ブライアンが音楽シーンの最前線から退く中、ずっと近くで兄を見てきたデニス・ウィルソンが曲を作り始めたのは68年頃。 メンバー中唯一サーフィンが出来き、女性ファンから絶大な人気を誇る華のあるドラマー。 「スリップ・オン・スルー」、「フォーエヴァー」、「バーバラ」、「レディ」、「リバー・ソング」などの優れた作品を数多く提供した。

私生活同様、情熱的でエモーショナルな作風が特徴で、70年代を通じてその魅力を存分に発揮している。 但し、マイク・ラブとの確執などデニスの作品の多くは未発表となり、未発表音源集として後年陽の目を見る事に。
小出しに発表されるデニスの作品を聴くにつけ、兄に匹敵する偉大なソング・ライターだった事を実感するのだ。 もし70年代、デニスをメインにしていたら、当時のビーチ・ボーイズの評価も変わったのかもしれない。


プロデューサー

ビートルズのプロデューサーはジョージ・マーティン。マーティンなしではビートルズ・サウンドは語れない。 彼は、ジョンとポール、ジョージらが作る素晴らしい楽曲を最高の形に仕上げる素晴らしい手腕を持っていた。 その貢献度はグループが成長するとともに存在感を増していく。

マーティン

まず、65年のアルバム『ヘルプ!』収録の「イエスタデイ」におけるストリングス・アレンジを提案したのはマーティン。 同アルバムの「悲しみはぶっとばせ」では初の管楽器のアレンジを手掛けている。 同年暮れの傑作アルバム『ラバー・ソウル』収録の「イン・マイ・ライフ」ではゴージャズなピアノ演奏を披露、テープ速度を変えてハープシコードのようなサウンドに仕上げた。「エリザベス風に」というジョンの要望に見事応えている。

66年に発表した「エリナー・リグビー」では「イエスタデイ」の路線を更に深化させた弦楽8重奏がグループの可能性を大きく広げる契機になった。 また、同年の「レイン」や「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」ではテープ操作やサウンドエフェクトを導入。ビートルズが新たな時代に突入した事を宣言している。 67年になるとアンニュイで幻想的な「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」など様々なアイディアを詰め込んだ大作をプロデュースする。

この時期生み出された素晴らしい作品群はメンバー、スタッフ全員が団結した結果であるが、マーティンの洗練されたセンスの賜物でもある。

コントロール・ルームから指示を出すブライアン

ブライアン・ウィルソン

一方のビーチ・ボーイズはどうだろうか?

63年から66年までの全ての作品はブライアン・ウィルソンがプロデューサーとして大活躍。ブライアンは作曲・編曲・プロデュースを1人でこなしていたのだ。

彼はグループの音楽スタイルをロック・バンドの枠では考えていなかったようだ。 63年の初プロデュース作品『サーファー・ガール』収録の「サーファー・ムーン」では早くも優美なストリングスを使っている。 又、同アルバムの「イン・マイ・ルーム」では美しいコーラスに管楽器を導入、後のシンフォニックな音作りを予感させるものになった。

彼が作るサウンドの特徴は、複数の楽器を組み合わせて作る独自の音色、ルートを避けるベース、パーカッションの多用、などが挙げられる。 通常のポップスではあまり使われない管楽器やヴィブラフォン、グロッケンシュピール(鉄琴)、ハープシコードなどを使ってきらめくサウンドを作る。 それはおそらくロサンジェルスの天才プロデューサーであるフィル・スペクターの影響が大きいのかもしれない。 レコーディングではスペクター御用達のセッション・ミュージシャン(通称“レッキング・クルー”)の面々を起用しているほどだ。

『サーファー・ガール』以降、ストリングスやブラス、キーボードなど様々な楽器を使用するブライアンが作り出すサウンドは、65年時点ではビートルズとジョージ・マーティンの先を行っていたと思う。

66年初頭にビートルズの『ラバー・ソウル』を聴いたブライアンは、個々の作品の素晴らしさにショックを受け、のちにビーチ・ボーイズの最高傑作と言われるアルバム『ペット・サウンズ』を発表する。 ジョージ・マーティンやポール・マッカートニーは『ペット・サウンズ』に触発され、次回作『リボルバー』以降コンボミュージックから脱却していく。
マーティンは『ペット・サウンズ』の対抗作品として『サージェント・ペパーズ』を制作したと明言している。 この辺りの攻防は60年代の音楽シーンにおいて最もスリリングで実りある展開であり、それ故にビートルズとビーチ・ボーイズが「永遠のライバル」と言われる理由なのだろう。

67年4月1日の『サージェント・ペパーズ』の最終セッションを終えたポール・マッカートニーは2日後に渡米し、4月10日にはロサンゼルスのブライアン・ウィルソンのスタジオを尋ねている。 この2人の接触は、「タイムマシーンに乗ってゴッホがコンスタブルと、ターナーがレンブラントと出会うようなものだ」と新聞に掲載された。
『スマイル』のレコーディングの最中、ブライアンは自分の音楽をメンバーが理解してくれずに制作が難航している事をポールに打ち明けている。 帰り際にポールはブライアンに早くアルバムを完成するようにと伝えるのだが、その後どうなったかは周知の通り。夏にはロック史上最高と称されるビートルズの最新作が発表され、ビーチ・ボーイズ渾身の力作が陽の目を見る事は無かった。



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